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#60 ろう者と聴者の間の『視線』に対する感覚の違い

「手話で話している会話を横で見ているのは、マナー違反ですか?」

手話を学び始めた人からこのように尋ねられ、ろう者である私は、「なぜ聴者はこういうことで悩むのだろう?」と不思議に思ったことがあります。
聴者は音の世界に生きているので、わざわざ人の顔を見なくても自分に関係のある話なのかどうかを判断できる状況に慣れているようです。しかし手話となると、自分に関係あるかどうかを判断するには、相手の顔に目を向けなければならないため、見てはいけないようなものを見ている感覚が強いのでしょうか。

私を含むろう者の反応としては「別にいいんじゃないの?見られても問題ないし」が大半なのですが、状況によっては「何を見とるんじゃ?」と怒り出す人もいたりするので、手話初心者は戸惑ってしまうのかもしれません。

話の内容を見てから目線を外す判断をすればいいのですが、手話を読み取るのに必死なあまり、ろう者にとっては「見られている時間」が長く感じます。覗かれているような感覚に近いでしょうか。

おそらく、これは手話を見る側の「視線」に関係していると思います。

読み取る=話の内容を理解することに努める
→読み取れなくて分からない
→凝視してしまう

このような流れで、ろう者は「見られる」を超えて「覗かれる」感覚になるのかもしれません。
とはいえ、凝視してしまうのは仕方がないので、時々頷いたり首をかしげたりしながら、何らかの反応を視覚的に示すと、ろう者としては「ああ、会話に参加しているんだね。読み取りに必死なんだね」と理解できると思います。

一方で、自分に関係のない会話を見てはいけないと思って、視線を逸らす人もいます。全く会話に興味がないという意思表示だったら問題ないですが、「読み取ってはいけない、気まずい」という理由で視線を逸らすという行為は、ろう者にとっては「同じ部屋にいるのにどうして参加しないんだろう?」と不思議に見えることがあります。
これも「視線」に関する感覚の違いでしょうか。

それでは「見られて困る会話」のときに、どうするのか。

そういう時には、場所を変えて話をします
音声言語の場合は、わざわざ場所を変える必要はなく、声の大きさを調整して囁いたり、口を隠して話したりすることができます。手話の場合は、視覚的な言語ですので場所を変えて話をした方がいいですし、場所を変えること自体が、耳が聴こえないが故の身体的な感覚として染み付いています。

余談ですが、ろう者の間では、テーブルの下で手話をしたり、敢えて口話だけで話したりという方法もあります。手話学習者にとっては、これが高度なスキルに映るようです。

ろう者と聴者が関わるなかで生じる、「視線」の違い。これをテーマに話し合ってみると意外な発見があるかもしれません。


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文:臼井 千恵
Twitter(@chie_fukurou


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