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ヌクマム

かつてアサヒグラフの従軍記者としてベトナム戦争を取材した開高健は、ヌクマム(ニョク・マム)について著書の中でこう記述している。

"ベン・ハイ河からカマウ岬まで、どの町、どの村へ行っても、”ニョク・マム”の匂いがしみこんでいる。サイゴンの舗道にもしみこんでいるし、カマウの『亜州大旅店』の暗く湿った壁にもしみこんでいた。石、木、川、草、新聞紙、タイプライター、すべてのものにしみこんでいる。この国の息の匂いだといってもよい。"
(開高健 「ベトナム戦記」より引用)

開高健らしい、いささか誇張がかってはいるが的確な表現だと思う。

そもそも「ヌクマム」とは何なのか。
ベトナム語での現表記は「Nước mắm」と書く。Nướcは水を指し、mắmは塩蔵した魚が発酵した状態のことを指す。
つまりは魚醤、タイ語でのナンプラーという呼称が一般に知られている調味料の一種である。

妻がベトナム出身なので、結婚以来我が家のキッチンにはヌクマムが常備してある。
付き合っていた当時のワンルームの狭いキッチンにも、ヌクマムは必ず存在していた。
妻は今も昔も変わらず、だいたい何の料理にでもヌクマムを入れる。
かつて妻に「ヌクマムなしで作れるベトナム料理ってあるの?」と聞いたことがあったが、妻は少し考えて「ない」と答えた。
ベトナム料理はすべてヌクマムをベースに成り立っていて、それを他のもので代用してしまうと今度は「ベトナム料理」と言えるのかが怪しくなるらしい。

日本でこの話をすると、ヌクマムが苦手だという方向に話が行ってしまうことが多い。そういう人はあの独特の発酵臭が苦手だと口をそろえる。
中には「ケツの穴の臭い」という失礼極まりないことを言う者もいた。
こういった者たちは概してヌクマムを実際調理に使ったことはなく、臭いだけを敬遠して評っている場合がほとんどだ。
しかし、ヌクマムの持つ調味料として「万能」といって差し支えないほどのポテンシャルを秘めている。

ヌクマムは魚介類を塩漬けにした上澄み液を取ったものなので、日本人の好きな旨味成分が多分に含まれている。単純化すれば出汁と塩分が一緒になったものなので、調味と風味付けがいっぺんにできる非常に便利な調味料なのだ。どう考えても海鮮大好きな日本人に合わないはずがない。
それなのにここまで嫌われている原因は、ひとえに間違った使い方にあると思えてならない。

そもそも一言にヌクマムと言っても、その種類と質で味も臭いも雲泥の差がある。
妻の実家に行った際、老舗メーカーの一級品を味わったことがあるが、臭いはほぼ全くしない上に味もまろやかで、海産由来の旨味が詰まった素晴らしい一品だった。
こういった上等品は刺し身醤油のように、食材に直接つけたりかけたりする時に用いられる。
対して日本で出回っているものの多くが大手メーカーの量産品である。
これらは雑多な水産を短期で発酵してカラメル着色してることが多く、はっきり言って低質だ。熟成の工程が短いため味もトゲトゲしいし臭いもきつい。
こうしたものを前述のようなつけたりかけたりといった使い方をすると、どうしても臭いが料理に残ってしまうのだ。
多くの人がヌクマムを臭いで嫌うのは、低質品を間違った用途で使用していることが原因だと僕は思う。

安価なメーカー品は現地では日常的な調味料として、煮物や炒めものに用いられている。
なぜなら調理過程でヌクマムの臭気を飛ばすことが出来るからだ。
ヌクマムには加熱すると臭気が飛ぶという特性がある。この「飛ばし」過程を経ることで、ヌクマムは臭うことなく出汁と塩気を添加してくれるのだ。

下記、最も簡単なヌクマムを使用した料理レシピ

材料

・何でもいいから青菜、適量
・ニンニクひとかけ
・ヌクマム、適量

①ニンニクを微塵に刻む、青菜は食べやすい大きさに切る
②フライパンに油をひき、ニンニクを軽く炒める
③ヌクマムを適量入れ、軽く焦がす
④青菜を炒める

以上である。
この場合③でヌクマムをしっかり加熱することで「飛ばし」を行っているため、臭いはほぼ食材に残らない。
味はタイやベトナム料理屋で出てくる空芯菜なんかを炒めたやつの味をそのまま再現できる。酒のアテにもなるし、肉を入れれば立派な主菜に格上げも出来る。

日本でヌクマムが異質扱いされているのは、こういった知識理解が遅れていることが大きな原因であると思う。
気まぐれで買ってきて使ってはいいものの、臭いが気になり調味料棚にしまいこんだきり、なんていう人も意外に多いのではないだろうか?

今や日本でもかなり一般化したタイ、ベトナムなどの東南アジア料理も多くはヌクマムがベースとなっている。つまり、日本人にとって受け入れがたいものではないはずだ。
ヌクマムの持つそのポテンシャルを多くの人に感じてほしいし、多くの人に一層親しんでもらいたいと切に願っている。


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