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「経済成長」への疑問

「経済成長」は「経済の動きを連続的量的に捉える立場から見た、経済規模が増大する傾向」です。GDPが取り上げられ、日本は今世界で何番目に下落した、〇国に追い抜かれた等と言うことが多いですね。
現代社会では、経済成長した方が国が豊かになり、他国よりも優位な存在になれるというのが一般的な考え方だと思います。ただ日本において、経済成長していないわけではないと思うし、しかし庶民の給料等は上がりません。「国」という言葉の持つ意味から、「国民」がどんどん遠ざけられている気がしてしてしまいます。そして今の資本主義社会は、格差を生むばかりです。

経済成長によってもたらされていることは数多くあるのも事実です。いろいろ安く手に入る商品やサービス、便利さもそうだと言えるし、回りまわって「治安や健康面での安全」もそうかもしれません。

ちょっと前まで、いやもしかしたら今もそうなのかもしれませんが、経済成長することで「幸福」も手に入るって思っている節があります。本当にそうでしょうか?「ある面」ではその通りかもしれませんが、それが全てではないはずです。これは「経済成長」だけで語ることはできない問題だとは思いますが、経済成長によって生まれた現代社会では、先に述べた格差社会→お金持ちが権力や支配、その影響力といった構図がよりあからさまになってきているようにも思えます。

ともあれ、「経済成長」することによって日本はどこに行こうとしているのでしょうか?恐らくそのゴールはなく、ないというよりは世界の社会システムの中で一番を目指しながら、あるいは上位を走り続けなければならないのかもしれません。これは日本に限ったことではありませんが…お金を儲けること、それによって生み出される物質的な豊かさだけを追い求めるあまり、精神性にある幸福がどんどん欠如して、経済成長に対しての豊かさのイメージに憑りつかれているように感じられます。まるでブランドファッションのイメージ戦略にも似ていて、華やかなイメージの商品を買うことができて、それを着て、オシャレに見える、オシャレに感じる、しかし実際着ている人がそう思っているに過ぎないこともよくあって、実は似合っていないのに、あるいは中身がスッカラカンなのに…ということもありますよね。ファッションなら本人が自己満足していればいいという側面はあるかもしれません。しかし経済成長も同じ感覚でとはいかないはずです。

経済成長は国民(人間)の幸福のためにあるものではないのでしょうか?国民ではない何か亡霊のようなものの為に経済成長といっているのなら、考え直す必要があると思います。

ところで以前国会で、「二番目ではダメなんですか?」とある議員の発言が議論を呼んだことがありました。そこには技術進歩の面→経済成長が絡んでいます。経済成長あっての技術進歩というのは否めない事実ですが、オルタナティブというか、別の次元、あるいは別の革新的な世界というのは作り上げられないものなのでしょうか?それは引き返すのではない、これこそがまさに先進的というようなものが…

経済成長の陰には、悪い言い方ですが他国または他国民を「ダシ」にするといったことがあります。人件費や土地代が安いからその国で工場を建て生産したり、あるいは自国で人が足りないから安く働かせる為に外国人を招き入れよう等。何をしてるんだか…世界の中ではジェノサイド的に強制労働ということもあるでしょう。それによって不都合な現実も生まれ、それに対処できずに、まるで子供がアレも買ってコレも買ってとせがむように、次々にコトを推し進めていく…「灯台下暗し」で、自国民が見えていない。国や会社を動かしていける者が保身、あるいはそれ以上を求め過ぎてはいないだろうか?仕事がないという国では働く場ができれば嬉しいでしょうが、その人達を喜ばせることも確かに重要ではありますが、自国民を喜ばせてはくれないのでしょうか?「代償はつきもの」と言って、亡き者のようにあつかわれるのは当然なことなのでしょうか?もしも国会議員がそのように思っていたとしたら、国民が投票して選ばれた国会議員によって、その国民が選別されてしまうなんとも皮肉な国ということになります。


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