「ている」「てある」を助動詞とみなすべき理由

以前の記事で、「〜ている」という表現の学校文法での扱い方について取り上げた。具体的には、「〜て」+「いる」のように分け、「いる」を補助動詞と捉える従来の学校文法(橋本文法)の問題点について見た。

今回はそれを踏まえて、学校文法において「ている」「てある」を助動詞とみなして分析することのメリットについて考えてみたい。

1 「ている」

現在の言語学・国語学では、「ている」は「動作の進行」、あるいは「結果の存続」を表すとされている。

「動作の進行」とは、「太郎が走っている」のような文であり、太郎の走るという行為が続いていることが「ている」で表されている。「結果の存続」とは、「花子が起きている」のような文であり、花子が起きたという行為の結果が存在し続けていることが「ている」で表されている。

どちらも、何かの行為、あるいは行為の結果が続いていることを意味する点で共通している。しかし、この意味は本動詞「いる」の意味から派生したものではあるが、その過程は容易には想像できない。このことはすなわち、本動詞「いる」の意味からはかなり離れた意味を「ている」が独自に持っている、と考えるべきであることを表している。

また、「ている」は「花瓶が壊れている」のように、無生物であっても用いることができる。それに対し、本動詞「いる」は有生物にしか基本的には用いない。この点でも、両者が異なるものと捉えるべきだと言える。

2 「てある」

「てある」についても同じことが言える。「ある」も「いる」も似た意味を表すだけあって、「てある」も「ている」と同様に行為の結果が続いていることを表す。例えば「花瓶が置いてある」では、花瓶を誰かが置いた結果が続いているという意味になる。

ただし、「ている」は「走る」「起きる」のような自動詞にも付けられるのに対し、「てある」は他動詞にしか付けられない。

「花瓶が壊してある」は他動詞「壊す」+「てある」であり、花瓶という対象を壊す主体が他にいないと成り立たない表現である。それに対し、「花瓶が壊れている」は自動詞「壊れる」+「ている」であり、花瓶を壊した存在については想定していない表現になっている。

「ている」「てある」にこのような使い分けがあるということは、「いる」「ある」の本動詞の意味からは全く想像がつかないことであり、「ている」「てある」が助動詞として独自に成長した結果だと考える方が納得がいくだろう。

まとめ

「ている」「てある」を助動詞と考えることのメリットがお分かりいただけただろうか。

学校文法(橋本文法)の基本である文節という考え方は、日本語を母語とする学習者が自ら分析しやすいという点で優れていると言われる。ただしこれは、文節が母語話者の感覚に沿った概念であるという前提である。だからこそ、より実感に即した分析ができるように、文節を形作る品詞分類の体系を改めて整備し直すことが必要であろう。

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