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「表現の自由」とは何なのか…

「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が開始3日後に中止になったことで様々な論議を呼んでいるが、その論議の中心になっているのが「表現の自由」の問題。

  ところが、この「表現の自由」について、展覧会の中止を申し入れた河村名古屋市長は勿論、主宰した津田大介自身までもがあまりにも認識不足だったり、間違ったことを平気で言っているのだ。

   そこで改めて、この「表現の自由」とは何なのかを考えてみたい。

日本国憲法  [第三章 国民の権利及び義務]   第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。  

   上に表記した通り、「表現の自由」とは憲法21条で保障されているもの。ここまでは多くの人が知っていると思うが、誰が誰に対して「表現の自由」を保障しているのか考えたことがあるだろうか。

   こういうツイートもしたが、「表現の自由」は国が国民に対して保障した権利、人権であって、国や政府、自治体、そしてそれを担う公務員は、あくまでも国民の「表現の自由」を守る側。たとえ税金を使っていたとしても、河村名古屋市長や松井大阪市長、菅官房長官のように展示内容、つまり国民の表現に対して文句を言ったり、圧力を掛けるようなことは出来ないのだ。

   それに彼らは国民の「表現の自由」を守る側なのだから、彼らが職務上、口にした言葉や表現は「表現の自由」で守られるべきモノでは決してないし、職務を離れない限り、彼らにはそもそも「表現の自由」はないと言っても過言ではない。

   この「NHKから国民を守る党」の立花孝志代表の行動について、これを彼の「言論の自由」として擁護する輩もいるが、それは大間違い。彼は既に憲法99条で憲法の尊重擁護義務を負った国会議員であり、マツコ・デラックスなど国民の「言論の自由」を守るべき立場。その彼が国民の言論に抗議したり、圧力を掛けることは「言論の自由」の侵害であって、それを国会議員ではない彼個人としての「言論の自由」で正当化することなど不可能なのだ。

   では、政府、自治体、そしてそれを担う公務員ではない民間の人間がマツコ・デラックスに抗議したり、「表現の不自由展」の展示物などに抗議したり、展示をやめさせる事は構わないのだろうか?

   上にも言った通り、国民は「表現の自由」を守られる側なのだから、勿論、マツコやTV局に抗議したり、展覧会の展示内容に抗議したり、中止するようにデモを行うことも可能だし、それもまた「表現の自由」で守られるべきこと (勿論、脅迫や威力業務妨害などの刑法上の違法行為に該る場合はまた別の問題として処罰は免れないが)。

     勿論、抗議する側だけではなく、マツコやTV局側にも憲法で保障された「言論の自由」がある訳だから、最終的には名誉棄損などの人権侵害があったかどうかを司法に判断して貰うしかない。

    ただし、「表現の不自由展」の場合は違う。展示に抗議をする人々の「表現の自由」は守られるべきだが、同時に展示の「表現の自由」も守られるべきだし、「表現の自由」を守る側の国や自治体が中止を命令することは憲法違反というしかない。 それこそ会場の周りで抗議デモが行われる中でも、自治体や警察が警備をしっかりとして開催されるのが、一番正しい姿だったのだ。

    これに対して、 “「表現の自由」と言っても何をやっても自由という訳ではないのだから、抗議をする国民が多ければ展示中止にするのは当然”という理屈を言う人もいそうだが、「表現の自由」などの人権は決して多数決で奪っていいものではないし、むしろその逆で少数派だからこそ守られるべきものなのだ。

   勿論、「表現の自由」があるから何をやってもいいという訳ではない。 

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。    第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

   こう憲法の条文にもあるように、国民全てがそれぞれ「表現の自由」だけではなく、生命、自由及び幸福追求に対する様々な権利(基本的人権)を持っている訳だから、その個人と個人の権利が対立する場合は当然ある。

    例えば、個人が何かを言ったりする「表現の自由」は守られるべきだが、差別やヘイト発言で別の個人、誰かの人権を傷つけることは許されない。だから差別やヘイト発言は「表現の自由」では守られないのだが、こういう風に「表現の自由」のように個人が持っている基本的人権を制限する事が出来る唯一の概念として憲法がつけている制限が「公共の福祉」

   この「公共の福祉」は上に紹介したように、中学生で習う基本的な概念なのだが、国民同士で“他の人の人権との衝突を調整するための原理”というもっとも大事な部分が忘れさられて、それこそよく似た「公共の利益(公益)」などという言葉と混同されてしまうことがよくある。

   そもそも「公共の福祉」は、ローマ時代は「人民の健康」と呼ばれたり、今の憲法をつくる過程でも「共同の福祉」や「一般の福祉」と呼び名が変遷したように、言葉としてあまり判りやすい用語とはいえないが、「公共の福祉」は、あくまでも個人同士の権利、人権がぶつかった場合にどちらを尊重すべきかということ。

     河村市長が言ったり、自民党の改憲草案にあるように、個人の上位にある国だとか社会だとか「公共の利益」を優先すべきという話とは全く別なのだ。

   そもそも「表現の自由」などの基本的人権は国家などの権力から国民、個人を守る為に生まれた概念であり、憲法はそれを守るように国家やそれを担う権力者などに命じたもの。この個人と国、権力という対立関係がその基礎にある事を忘れてはいけない。

   そう考えれば、憲法が国や自治体、公務員だけにその自由を守らせ、私たち国民には自由にしていいと許した「表現」とは、そもそもは一体何のことなのかも判る筈。それは国や自治体、公務員などの権力に対しての国民の批判や抗議だし、それこそが「表現の自由」で唯一、絶対的に守られるべき内容なのだという事は知っておくべきなのだろう。

   


                                   ※Phot by 「表現の不自由展・その後」公式サイト

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