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「犯罪者が刑務所で幸せに暮らす未来」東京都同情塔 九段理江 | 書評 

2024年4月1日 読了  



個人的評価 ★★★★☆


あらすじ (ネタバレなし)

建築家の牧名沙羅(マキナ・サラ)は東京に建つことを予定されている「シンパシータワートーキョー」のコンペに向けて構想を練っていた。この建築物の用途は「刑務所」であり、ここに”居住”する犯罪者は出自や環境によって犯罪を強いられたケースが多いため同情されて然るべきであって、幸せな刑期を送るべきというコンセプトがある。
タワーの原案者は、犯罪者は「ホモ・ミゼラビリス」、タワーは刑務塔などではなく「シンパシータワートーキョー」と言い換えられ、すべて人類は平等だという社会主義的な思想を持つ。牧名はそれらのネーミングへの違和感を抱えながら、タワーと向き合い、また自分自身とも向き合っていく。

この建築物が東京にそびえ立ち、犯罪者が同情され、保護され、終いには敬われることになったら、日本は幸せになれるだろうか。


< 感想・考察 >

単純に文章作品として楽しめた。文章構成は秀逸で、多角的な視点を以て表現されている本書を、まさに全方位から見物できるタワーのように感じながら読ませてもらった。堅固で自信家の牧名と、犯罪者の親を持つ拓斗のやり取りから、いくら交じり合おうとしても分離してしまう水と油のような、もっと言うと天と地のようなものを感じた。今日話題に上がることの多い”ジェンダーレス”だとか”収入差による待遇の違い”であったり、あらゆる部分で異なる2人を見ていると、バリアフリーな社会とは一体、と考えさせられる。
そして、最新の技術によってデザインされ、タワーが完成された後を描いた未来像は、物質的にも精神的にもソーシャルインクルージョンの達成された、近未来的なユートピアのように思えて、ディストピアという印象を私は拭い切ることが出来なかった。
犯罪者は厳しく罰せられるべきとか、平等主義の否定とかいったことではなく、なんというか。(頭の検閲者がうるさい。)
タワースタッフ(サポーター?)として再就職した拓斗がジャーナリストからのレイシズムあふれる質問に対してAIに質問しても答えられなかったシーンに、なぜかホラーの片鱗を感じた。
”スタッフ”は幸せそうに働き、”ゲスト”は天上から東京を見渡しながら優雅に過ごす。両者の間に―もっというとそのタワーとその外部の間に―境界はなく、理想のように思えるが、それを強いられている感じが否めない。決して認めていないその状況を無理に肯定している感じ。そしてそれを強いているのは「東京都同情塔」というタワーであり、その名前自体がその幸せをもらたしているのだろうか。物語内でもタワーに向けて賛否両論の論議が巻き起こっており、それはタワー自体が我々が日頃抱いているある種の違和感を物質的に象徴していると言えよう。元凶―元凶というべきではないか。あるいは天啓―はマサキ・セトであり、構想を現実のものにしたマキナ・サラだ。しかし、これに関しては本書における犯罪者の扱いと同じように、原因を辿ればきりがなく、本人の意思ではなくデターミニズム的に考えざるを得ないのだろう。誰も悪くなんかなく、誰もが批判されるべきでない。なんだか語尾が牧名のように使命感・義務感を纏ってきてしまった。
最後に牧名はタワーを見上げる形で物語を終える。タワーを建てたことは牧名にとって本当に良かったといえるのだろうか。


名前の違和感について

本作ではグローバル化、ジェンダーレス化といった時勢に合わせた物の名前・呼び方が変更されるシーンが多々出てくる。

「全性別トイレ」⇒「ジェンダーレストイレ」
 …漢字が並ぶと古臭く堅いイメージを伴うから。ジェンダーレスという語が世に浸透していて分かりやすいから。

「犯罪者」⇒「ホモ・ミゼラビリス」(造語)
「非犯罪者」⇒「ホモ・フェリクス」( 〃 )
 …犯罪者と非犯罪者を区別しないため。犯罪者を認め、受け入れられやすいため。

世に蔓延るワードの中でも、考えてみれば誰かに配慮したり呼びやすいように改変されたものが腐るほど見つかるだろう。筆者も無意識に「単語」を分かりやすいかと慮(おもんばか)って「ワード」と変換してしまった。

「シンパシータワートーキョー」も例に漏れず、「東京都同情塔」と言い換えられる。

マキナ・サラが感じていた違和感は、今日(こんにち)、当たり前に蔓延した感覚や常識自体に一石を投じているのかもしれない。


AI生成ツールの使用について

芥川賞受賞時には「文章の5%くらいをAIを活用して作成した」として話題に上がっていた。芸術作品にAIの活用とはなんとけしからんと言いたくなるが、本書には”AI-built”というソフトが検索結果を述べるシーンが多く、AIの使用自体は何らおかしいことではなかった。
ただ、実際にどの文章を使ったのだろうといざ目くじらを立てて読んでみると、分からない。人によるものとしか考えられない部分を、もしAIが書いていたらと想像すると、少し怖くなる。
美術分野においてAI生成はしばしば禁忌とされているが、文学においてもヒトとAIの違いを見分けられない時点で、シンギュラリティは始まっていることを実感せざるを得ない。
そういう点で、ヒトとAIの違いが分からないみたいに、犯罪者と非犯罪者の違いも考えてみると分からなくなってくる。


映像にすると恐ろしくつまらないだろうが、本書は文章で読んでこそとてつもなく面白い作品だった。
他にも言及したいことは山ほどあるが、一旦ここまで。


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