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「読書レビュー②」熊代亨「人間はどこまで家畜か」

こんばんは。PisMaです。

本日も「人間はどこまで家畜か」のレビューを書いていこうと思います。前作はこちら!



今回書くのは第二章「私たちはいつまで野蛮で、いつから文明的なのか」。

2024年の日本社会の現状は第1章でも説明したのですが、現代における日本は世界の中でも安全性と安心性が高く、日本人が当たり前として身につけている行動や慣習はかなり穏やかなものとなっています。犯罪発生率や殺人事件、未成年の非行なども減少の一途を辿ります。

「今に比べて昔は良かった」

そんなことを言っている年配の方を見かけるときはあるでしょうか。こう聞くと、現代は息苦しく常に監視されているかのようで、私は少し前の世代の方が自由でよっぽど生きやすかったのだろうか?とふと考えるときがあります。

しかし、数十年前の日本は現在よりも暴力や迷惑に鈍感で、テレビに映る芸能人も「身体を張った演技」が求められていました。体罰やDVは問題にすらなっておらず、取っ組み合いの喧嘩は日常茶飯事。未成年の非行は珍しくもなかったそうです。

こう考えると、やはり昭和平成と比べるとだいぶ意識は変わりつつあるのです。よくそこかしこで見かける「厄介な人」だと煙たがられるご老人や中高年の方を見かけると「目まぐるしく変わる価値観のアップデートするのが間に合っていない」方なのかと考えるようになりました。どんな不満はあれど、結局現代に生きる私たちが最新になるのだろうとおもいます。

しかし人が助け合い、争いごとには全員で対処する文化とはストレスフルな一面があることも踏まえなくてはなりません。本書には

「誰もが助け合う社会や文化とは、誰もが助け合わなければ生きていけない文化でもある。」

といった旨が綴られています。

人間関係や共同体としての意識が担保となり、そのルールを破るものは罰せられる。
皆で助け合うための共同体を組んではうまくいかず崩壊し、また徒党を組んでは解散する。
小さな集落の村八分であれ都会の政党であれ、こういったことを繰り返しながら歴史は紡がれてきました。

また中世の騎士とは殺人や略奪、破壊を楽しみとする文化でした。そういった文化を楽しめる者は出世し権力を得ていき、逆に大人しく憎悪しない者などは落伍者と呼ばれ修道院に入る。
まるで今とは真逆の価値観だといいたいところですが、現代におけるいじめられっ子といじめっ子の問題を見返してみると…なにかグロテスクな関連があるようにも見えてなりません。

ジェンダー、死生観、健康、子どもの生存率は数百年単位の時間をかけ、ようやく理想へと近づいてきています。攻撃性や衝動性が重要な文化から、穏やかで安全な文化に変わる。数百年で起こった「文化的な自己家畜化」は、まだまだ人類の成長過程である私たちをどう変えていくのでしょうか。

本日はここまで。
今回も興味深い内容でした。今現代で「あり得ない」「非常識だ」と問題視されている事象の数々は、ひと昔前であれば全て「普通」だった可能性すらあるという事実が怖いですね。常識という概念の脆さに冷や汗が出る時があります。
また読めたら続きをあげますね。

お相手は黄緑の魔女PisMaでした。
私たちは一生常識になれない。

おやすみなさい。

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