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【読書レビュー③】熊代亨「人間はどこまで家畜か」

こんばんは。PisMaです。

本日は「人間はどこまで家畜か」のつづき、
第3章「内面化される家畜精神〜人生はコスパか?」を読んでいこうと思います。
前作はこちら。


前章では歴史の中でどのようにして家畜化…前々章の言葉を引用すると、

「人間が作り出した人工的な社会・文化・環境のもとで、より穏やかで協力的な性質を持つよう自ら進化してきた、そのような生物学的な変化のこと」

この事柄をどう進化させていったか、そして昭和から現代までの自己家畜化について綴りました。

本章では、現代の日本政府による健康管理の点から自己家畜化を紐解いていきます。
数十年前よりも制度や思想、メディアが発展したことで、我々は穏やかに、安全に、そして長寿に生きるよう促されるようになりました。

また死にまつわる言動も医療化されており、迂闊に死についてはみ出たことを語ると精神科や心療内科などの受診を推奨され、整備の対象となってきています。
また現代の子供が生まれにくい環境で少子化も進んでいることも踏まえると、私たちは死と生に触れる機会を多く喪失していると考えられます。
すなわち、個人のなかに「死生観」が出来上がらないのです。

そんな私たちの中に構築されつつあるのは、健康な人と生産年齢人口しか見えてこない「生生観」なのではないかと筆者は語ります。

当然のように健康リスクを避け続けるこの現代の動きは、もはや自分の命が誰のものなのかわからなくなってくるところです。
健康のためならば国民の生活を制限するロックダウンを行う、未だ記憶にあたらしい新型コロナワクチンの接種も「死や後遺症の危険もあるが、その可能性は限りなく低い。それならば社会全体に広がるよりは良い」といった功利主義のもと、日本国民に接種をするよう通達していました。

現代において大多数といっても過言でない思考となる功利主義や、経済活動が発達した現代に鎮座する資本主義。それは「コスパの良い人生」を求める個人主義へと変わりつつあります。

「次の世代を残すよりも、自分が充実した人生を歩めればそっちの方が幸せだ」

「養育コストをかけた子どもが利益をあげないうちに死ぬのは資本主義に反するから、自分の寿命を伸ばした方が効率がいい」


などなど、生殖を含めた動物としての行動形質が上書きされる「真・家畜人」が生まれる事態が起きています。

これは喜ばしいことなのか。
この強い功利主義と資本主義についていけない、生きづらさを抱える人たちも少なからず存在しています。次回は昨今の精神医療の現場から「家畜になれない人たち」をまとめていきます。

本日はここまで。
なんだか少なからず心当たりがあるのがすごく恐ろしいというか、ぞっとするお話だったなと感じます。管理されすぎた人間は、健全な生物ではなくなってきているような感覚がして冷や汗が出ました。読んだ方々にも気になるところはあったでしょうか。

お相手は黄緑の魔女PisMaでした。
幸せになったあと、どこに行くんでしょうね。

おやすみなさい。

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