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ボランティアは「行動の結果」だと思う

九州豪雨の被害がすごい。

熊本では1週間前に発生した県南地域はおろか、

長雨が続き県北にまで被害が出ている。それも甚大な被害だ。

全然笑えない。

京都で言えば宇治から南が壊滅的な上、
福知山から北の地域でも各所被害が出ているような状況。

こういった災害時に活躍し、トレンドのように上がってくるのが

「ボランティア」だ。

どこからともなく現場に駆け付け、人助けのために懸命に動く。

被災した方は、ボランティアの存在の大きさを実感するだろう。



「ボランティア」が苦手

僕は、「ボランティア」という言葉が苦手だ。

その言葉の持つ響きに、どこか ”偽善的” な、

自分には受け入れがたい、「キレイすぎる異物」に感じてしまう。


「私、ボランティアやってます!」みたいな雰囲気も、苦手だ。

「ほんまに言ってんの?」とか思う。

おそらくボランティアの中にも色々いて、

「人に喜んでもらうことが好き」なパターンもあれば、

「ボランティアしている自分が好き」なパターンとか、

多様な目的手段として、「ボランティア」に至っているのだろう。



「ボランティア」に入り込む

2016年、熊本地震の復興支援として被災地で

全国から来るボランティアをコーディネートする仕事をさせていただいた。

被災地には、全国津々浦々からボランティアが集まってくる。

僕は給料をもらっていたが、もちろんボランティアの人は全部自己負担だ。交通費も食費も宿泊費も。遠方の人なら普通に旅行に行くレベル。

そんな人たちとかかわるたびに

「お金を払ってまでこうやって動くなんて、すごいなあ」と思いつつ、

「僕にはできないな」とちょっと変わった人を見る位に思っていた。


僕自身も現場で作業をしていたのだが、

どこの現場でも印象的だったことがある。

がれきの撤去とか、片付けとか、仮設への引っ越しとか、

どんな内容であれ、めちゃくちゃ喜ばれるし、感謝されるのだ。

目に涙を浮かべて「こぎゃん暑か中ありがとう、倒れんでね」

と自家製の梅干しを沢山くれた人もいたし、

庭先に引っ張り出した貴重な冷凍庫からアイスを差し入れてくれた人もいる。

なぜかみんなめっちゃモノをくれる。

おカネじゃなくても何かあげないと、納得できないのかもしれない。

でもそれくらい、喜んでもらえているのがわかって逆にありがたい。


僕も最初は一作業としてやっていたものの、

これだけ喜ばれて涙まで流されて、

あんなことがあってこんなことがあって、と当時の状況を話してくれて、

わざわざ遠くから来てくれてありがとうなんて言われて、

何も感じないわけがない。

僕の想いはどうであれ、自分がした事でこれだけ感謝されるという、

「僕でも人の役に立っている」という喜びは忘れることができない。


そしていつの間にか、色んな人たちと顔見知りになり、親しくさせてもらい、

想いを知り、「被災者と支援者」の関係ではなくなる。

純粋な人間関係になっていく。

「この人たちの力になりたい」と強く思うようになった結果、

熊本に住み着くという現在に至っている。

当初は復興支援が終わったら離れるつもりだったくらい、

縁もゆかりもなかったところなのに、自分でも不思議である。


「ボランティア」は表面的な形

僕は近々、同じ熊本県民として、被災地に行こうと思う。

「ボランティア」に行く。

ただ目的は、「ボランティア」ではない。


被災地には地震の時一緒に現場に入った人もいるし、

お世話になっている人たちが「今度は俺たちがやる番だ」

と言わんばかりに頑張っている。

ただ、その大好きな人達の力になりたい。

それだけである。


いわゆる「ボランティア」と呼ばれる人たちは、

それがボランティアかどうかはどうでもよくて、

目の前の、身の周りの人の力になれているか、ただそれに注力している。

「ボランティアなんて偽善くせー」なんて思っていた当時の僕みたいな

外野からの目線など、どうでもいいし、それどころではない。

「ボランティア」という言葉は、

こういった有事の際に自発的に動く人たちを統括して表現するための、

外野からみた表面的な呼び方に過ぎない。

知り合い(の知り合い)が困っていたら助けたいし、助けようとする。

その行動を表現しただけの話だと思う。


「ボランティア」は目的ではなく、「行動の結果」だ。

人の力になろうとする時、

それがボランティアかどうかなんて関係がない。

結果として、第三者視点から見て「ボランティア」と呼ばれるだけだ。

だから未だに、熊本地震の話をしたとき

「ボランティアに来てくれてありがとう」

と言われるのがちょっと違和感だったりする。

僕は「ボランティアしにきた」自覚は無かったから。

思い入れのある人、場所のためなら当たり前のことだと思う。


日本に限った話じゃなく、外国に住む友人の国で、

何か痛ましいニュースを見たとき、もう他人事には思えない。

その友人を思い、連絡したりもする。

アジアでもアフリカでもヨーロッパでも南米でも、

どこでも友達のいる国での出来事はすごく身近に感じる。

これも多分同じ話だ。


だから僕がこれからとる行動は

僕自身としては親しい人達に協力したいがために動いている話だが、

それが周りには「ボランティア」に映るだろう。


そんなことを書いていたら、自宅の水が出なくなった。

とりあえず避難します。






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