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TKC#1 「2010年11月、博報堂を辞めた」(過去日記vol.1)

こんにちは、TKCこと田中です。僕は毎週金曜日に更新する予定です。(今日曜ですが、、、)その週のチャレンジや苦難で面白いことを日記として公開していこうと思うのですが、その前に今までの出来事をダイジェストで過去日記として公開していきたいと思います。僕は大学卒業後新卒で入った博報堂で4年半ちょっと働きました。その博報堂を辞めた時からエンタメへの挑戦が本格的に始まったと思いますので、そこから振り返っていきたいと思います。

過去日記vol.1 博報堂を辞めた時のお話。 

博報堂で4年半働き、大好きな映画の仕事も担当することができた。確か入社2年目に社内で誰も担当していなかった映画配給会社の担当に名乗り出て、少しずつお仕事をいただくことができ、そこから宣伝だけでなく、出資や製作委員会に参加するなど、少しずつ希望の仕事を引き寄せて行くことができた。そういう自負があった。しかし、現実はそんなに甘くない。会社員の宿命、人事異動だ。

その時期に人事異動があることはわかっていた。本当はその1年前が通常の人事異動のタイミングなのだけど、部署の事情で1年延期になっていた。部署の事情で延期すると、異動の時にある程度希望が叶うなんていう噂もあったし、映画の仕事を続けたい旨は会社に伝えていたし、クライアントさんもそれを望んでくれたいた。だから異動してもこのまま映画の仕事ができると思っていた。少なくとも担当している出資作品の公開までは絶対に外れないと思っていた。

しかし、人事異動は無情である。結果的に、僕は自分で引き寄せた仕事を会社に取り上げられたのだ(被害者ずらして書くとそうなる)。若気の至りとしか今では思えないが、それに怒った僕は、退職を決意した。今思えば大変、本当に無茶苦茶ありがたい話であるが、いろんな先輩たちが引き留めをしてくれた。それを全て無視し、僕は退職した。いろんな方たちに迷惑をかけてしまった。

そんな感じで突然会社を辞めることになった僕は、図らずも心機一転、0から映画を勉強して、再スタートすることになった。特に制作に関しては知識がないので、まずは、勉強するために、海外のフィルムスクールを目指すことにした。

海外の大学院は9月入学。日本の入試の感覚で言えば、入試は7月とかだと勝手に推測。半年以上あるので、死ぬきで勉強しよう!と決意して、出願方法などを調べた。当たり前だが、それらが書いてあるHPも全て英語。当時の僕のTOEICのスコアは200点台だったから読むのも必死、、、、(そのスコアも入社時の研修でのスコアなので、さらに低くなっていた可能性もある、、、)

そんな英語力でも確実に分かったことがあった。入学願書の締め切りが11月なかばだった、、、2週間ほど前。つまり、最速で受験するためには1年後に願書を出し、その後試験を受け、入学できるのは9月、、、それは会社を辞めて22ヶ月後になるということを意味する。いきなりここで22ヶ月ニートが確定した。(そう言えば最近ニートって言葉聞かないですね。死語なのかな)

当時の僕は貯金もなければ資産もない。なんなら借金もあった。22ヶ月もニートをできるわけがない!焦った僕がすぐとった行動はリクナビネクストへの登録。と同時に実家に行き親に頭を下げなければいけなかった。ここに住ませてください、、、と。(アメリカに行けたとしても、それは同じことなんだけども)

親に頭を下げたときに、会社を「辞めた」ことを伝えた。「辞める」ではなく、「辞めた」と伝えたから、反対もされなかった。死ぬほど反対したかっただろうけど、手遅れだとわかり親は何も言わなかった。ついでに、離婚することも伝えた。こっちも手遅れだと悟ったらしく何も言われなかった。何か言いたげな母親に、父親が「何を言っても無駄だ」と言っていた。退職も離婚も「決定してしまったことだから無駄」だったのか「僕には何か言っても無駄」だったのか。本意はわからないが、おそらく99%後者だと思われる。しかし、その時に学んだ。こういうことは一気に言ったほうが逆に楽だなと。

さて、そんな感じで28歳にして無職バツイチで借金抱えて実家出戻りになった僕は、リクナビネクスト経由で転職先を調べながら、ふと思い出した。そういえば、僕、博報堂入社直前に、東京芸大に映画学科ができて、内定断ってそこに進学しようか一瞬悩んだなって。(その時は、先輩に相談したら絶対やめろと止められました)最も尊敬する映画監督の一人である北野武さんが教授をやられている大学に行きたい!ってその時は思ったんです。それを思い出し、H Pをみてみる。今度は日本語だからすんなりいく。なんと、まだ願書間に合う!確か12月10日くらいが締め切りだったのかな。ギリギリ!スーパーラッキー!!

そうして僕は4月から東京藝術大学大学院映像研究科に通うことになった。ただ、僕が入学した年から、北野武さんは教授ではなくなっていた、、、パンフレットには載っていたのになあ。

ちなみに、入学前に311があった。当時僕は当たり前だけどスーパー暇人で、どれくらい暇かというと、その日が都議会の最終日で石原慎太郎が都知事選再選を目指すかどうかを議会で表明するか否かを気にして、都議会を見ているくらい暇だった。都議会の最後に石原慎太郎が再選挑戦を宣言し、30分後とかに記者会見をする、となった。その記者会見を待つというスーパー暇だったその時に地震が起きた。

実家のテレビを支えながらとんでもないことが起きたいなと思ったんだけど、その後になんかスーパー暇人であることが急に恥ずかしくなって。高速道路が開通してすぐに、家の近所で食べ物を買い占めて、被災地に届けにいった。買い占めしてた時に無茶苦茶白い目で見られたんだけど、僕は正義のためにやっているのだ!と思い全く気にしなかった。高速道路が開通している茨城まで食料を持っていき配ろうと思ったら、茨城は全く食料が不足していなかった。むしろ都内のコンビニより潤沢だった。地元の人には食べ物いっぱいあるから、飯食って行くか?と言われた。世の中の複雑さになんとも言えない気持ちになった。沢山のことを学んだ。何より、正義とは難しいなと感じた。

そんな311の影響で僕の大学院の入学式は中止になるのだが、芸大の日々はスタートした。

Vol.2「東京芸大実習に日々」篇に続く。

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