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#1 コシチュシコ山への旅~なぜ、コシチュシコはポーランドで英雄になったのか?~

クラクフのコシチュシコ山へ

 コシチュシコ山に行きました。ここはポーランドのクラクフにある史跡です。
 高校で世界史を勉強された方はご存知かもしれませんが、日本の歴史教科書ではコシーシュコと表記されるポーランドの英雄を讃えて作られた人工の山です。
 この山へは、登頂する前に博物館の展示を見学してから向かう構造になっています。

そもそもコシチュシコとは?

 コシチュシコはポーランドの軍人です。アメリカ独立戦争にも参加した経験を持ち、ポーランドに帰国後、ポーランド軍に従軍します。その最中に、ポーランド分割がおこり、それに彼は抵抗したことで名を知られました。
 なお、ポーランド分割とは、3度(1772,1793,1795)にわたって隣接する大国プロイセン、オーストリア、ロシアの三国に分割されてポーランドという国家が消滅したことをいいます。

ポーランド分割の有名な風刺画
左から:エカテリーナ二世(露)・ポーランド王・ヨーゼフ2世(墺)・フリードリヒ2世(普)

 第二回のポーランド分割に際しては、ロシア軍に対してポーランドが降伏しました。しかし、彼はこの降伏に反対し、除隊をしてフランス革命中のパリに渡って再起を図りました。そうして1794年に農民を組織して立ち上がります。これを歴史上、コシューシコ(コシチュシコ)蜂起と呼びます。
 残念ながらこの蜂起は失敗し、コシチュシコ自身捕虜となり国外追放されます。その後の第三回ポーランド分割によってポーランドは地図から姿を消すこととなります。

博物館の展示1
ポーランド分割前の国土
博物館の展示2
ポーランド分割後の地図

なぜ、コシチュシコはポーランドで英雄になったのか?

 上述のようにコシチュシコは祖国を守りきることはできませんでした。しかしながら、ポーランドではかなりな英雄的扱いをうけています。実は私が高校で世界史を習ったとき「祖国を守りきれなかったのになんで英雄扱いされているんだろう」と純粋な疑問をもちました。その時は回答を持ちえませんでした。
 ではなぜ、コシチュシコはポーランドで英雄になったのでしょうか。私はこの疑問を携えて現地を訪問しました。
 興味深いことに山へ向かうまでに通る博物館には以下のような記述がありました。

博物館の展示3
展示の終盤:なぜ彼は人類の不滅の英雄になったのか?

…he has become one of the immoratal heroes of humanity.Why?
Because his name is Poland.
(彼は人類の不滅の英雄になった。なぜか?彼の名前はポーランドだからだ。)

コシチュシコ山の地下博物館展示より

 これはどういうことでしょうか?? 帰国まで結局よくわかりませんでしたが、日本のポーランド研究者が一冊にまとめたポーランド史の概説を記した書『ポーランドの歴史を知るための55章』にこのことを考察するためのヒントがありました。

 ポーランド人には伝統的に、たとえ国を失ったとしても最後のよりどころとなる信念がある。それはポーランド人であるという意識、およびカトリック信仰であった、という。
 その信念はポーランド国歌にみられる。国歌は冒頭で、「我らが生きる限りポーランドは滅びない」とうたうが、これは国の存在よりもポーランド人であるという意識の方が優先するという意味をもつ。たとえどこであろうとも、ポーランド人の住むところがポーランドであるという感情が強いために、国歌のいうポーランドとは地理的にどのあたりのことを指すのかということも、明確ではない。(p32)

松川克彦「第Ⅰ部〈総論編〉ポーランド史を見る眼~③安全保障の問題-「我らがいきる限りポーランドは滅びないのか」-~」渡辺克義編著『エリアスタディーズ181 〈ヒストリー〉ポーランドの歴史を知るための55章』明石書店、2020年

 すなわち、国土消失という受難はポーランド人にとって大きな出来事ではありますが、それよりもポーランド人としての共同体意識が強いため、地理的な要件はあまり明確な論点にはなってこなかったとのことです。
 多くの共同体の場合、祖国の地図を見て領域を認識し、自身の共同体を想像して顔見知りでもない人々を同胞として心に思い描きます。しかし、ポーランドにはその国土がなくなってしまいました。では、”ポーランド人”という共同体意識は国土なしにどのように確保されたのでしょうか。以下を参照したいと思います。

 ポーランド国歌では、断片的に地名はあがるものの、国歌の領域は漠然としている。というのも、共通の価値観として第一にあげられるのが「神」、次いで「名誉」という内面の確信であり、第三番目になってやっと「祖国」が来るからである。
 個人の主張の特に強いポーランドでは、各自がそれぞれの信念をまず優先した。その背景にあるのは、おのれの名誉を失うくらいなら、国家を失ってもやむを得ないという意識である。(pp32-33) 

同上、松川(2020)

 (…)ロシアとの戦いを叫ぶポーランド国歌は、「いかに勝利を得るかを、ボナパルトが我らに示した」、というのであるが、(…)
 歴史的に、ポーランド人が起こした蜂起は、すべて失敗に終わった。それでもポーランド人にとって重要なのは、ロシアに一矢むくいたという達成感である。失敗はしても戦ったとする満足感である。
 第二次大戦。ポーランド消滅の原因となった1939年のドイツとの戦いも、自国のためというよりは、イギリスとフランスに利用されて自らを犠牲にした戦争であった。国は消滅し国民は被害を受けたが、それにしてもポーランド人にはヒトラーに抵抗した最初の国民であったという誇りが残ったのだ、とする。(p33)

同上、松川(2020)

 ポーランドは歴史的に2度消滅の苦汁をなめました。一度は先ほどもみた三度にわたるポーランド分割でした。その後、第一次世界大戦におけるドイツとオーストリアの敗戦及びロシア革命の勃発によってポーランドは国土を回復し独立を果たしますが、第二次世界大戦勃発によるナチス=ドイツとソ連の侵攻によって二度の国土の消滅をします。
 このようにみてみると、ポーランド人という想像された共同体意識はまさに”自分たちの名誉を死に物狂いで守った歴史”によって生み出され、確保されているのであると考えられます。
 先の歴史家は、そういった意味でポーランド人の抱くコシチュシコは”ポーランド精神の体現者”でありつづける英雄なのだということが言いたかったのではないかと思いました。

最後に

 最後にこの写真をご覧ください。山頂には国旗がはためいています。3つのうち、2つはポーランド国旗でしたが1つはウクライナ国旗でした。ロシアから侵攻をうける隣国ウクライナに対しては他人事と思えない感情を多くのポーランド人は抱くのでしょう。コシチュシコの山にそれがある意味を想像しました。

山頂にて

参考文献
渡辺克義編著『エリアスタディーズ181 〈ヒストリー〉ポーランドの歴史を知るための55章』明石書店、2020年

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