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『ドライブ・マイ・カー』感想~これはコミュ障の物語だ~



 一般的に映画や小説などの物語は「因果応報」であることが多い。悪いことをすればその報いを受け、良いことをすれば良いことがある。リアリティラインの高い(現実に即した)物語ほどこの「マナー」が守られていないと気持ち悪く感じる。現実が必ずしもそうではないからなのか。せめて物語だけには真面目に生きていることを肯定してほしいと託してしまう。
 本作は真面目に生きる主人公の人生を、感情に正直な者たちがかき乱していく。彼らは「悪いこと」(法を犯したりモラル違反だったり)をした結果、相応の報いを受ける。しかし、真面目に生きている者たちが幸せそうかというとそんなことはない。感情に正直な者たちの方が人生を謳歌しているように見える。真面目に生きている主人公は終始ツラそうなのだ。それは主人公が妻を亡くしたからではない。彼が「コミュ障」だからだ。


 『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の同名小説を濱口竜介監督が映画化。第94回アカデミー賞では国際長編映画賞を受賞。主演は西島秀俊。
 舞台役者・演出家の家福(かふく)は妻で脚本家の音(おと)と充足した日々を過ごしていた。ある日、音は「話がある」と言い残したまま亡くなってしまう。それから2年後、家福は広島で行われる演劇祭でみさきというドライバーと出会う。


 主人公の家福は「コミュ障」であると私は思う。「コミュ障」という言葉は、あくまでも俗語なのではっきりとした定義があるわけではない。ただ、ニコニコ大百科の「コミュ障」の説明が私はしっくりきたので引用する。

コミュ障(こみゅしょう)とは、コミュニケーション障害の略である。実際に定義される障害としてのコミュニケーション障害とは大きく異なり、他人との他愛もない雑談が非常に苦痛であったり、とても苦手な人のことを指して言われる。
概要
あくまでも、できないのは休み時間などに行われる、友人や知人たちとのどうでもいいけど実に楽しげな会話である。多くの人は、学校生活や仕事上でどうしても必要な会話、事務的な応対については、割と可能であったりもする。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E9%9A%9C

 家福は舞台役者・演出家として名の知れた存在であることが映画内でうかがえる。仕事上や社会生活を送るうえでのコミュニケーションは問題ない。しかし、世間話のような彼の「素」が見える会話はしない。コミュ障とは単にしゃべれないというわけではなく、自分の感情や気持ちを素直に言葉で表現できないのである。
 みさきが運転する車内で後席の家福は妻が吹き込んだカセットテープ相手にセリフの練習をする。みさきと雑談をすることはない。彼をコミュ障として見ていると移動中でもストイックに稽古に励んでいるというよりかは、みさきとの間が持たないからやっているように思える。それと同時に、亡き妻と感情を廃したコミュニケーションを取っているようにも感じる。つまり家福はコミュニケーションの価値は分かっているが、うまく出来ない。人に興味がないとか冷たいのではなく、コミュ障なのだ。
 家福は感情を出さない。舞台稽古の本読みでも感情を込めないようにと指導する。家福と音の自宅はとてもきれいでよく片付けられている。しかし、生活感はない。役者・演出家としての顔以外の部分が見えてこない。自宅の様子から彼が真面目であるが自分を表現するのが苦手なのが伝わる。全体的に白っぽいインテリアで統一された部屋からは、空虚な印象を受ける。成功者のはずなのにうらやましくはない。
 家福は何がきっかけで感情を出さなくなったのか。劇中、家福夫婦の愛娘が幼くして亡くなったことが示される。おそらくそのことが原因であろう。妻を支えるためには自分の感情が邪魔だと思ったのだ。妻のために自分が悲しんでいる余裕はない。家福は感情を去勢したのだ。


 見始めてしばらくは、主人公・家福の「素」の部分が見えないので感情移入しにくかった。しかし、よく知らない他人と車内で二人きりになった場合、自分ならどうするか。そんなことを考えながら彼のコミュ障ぶりを見ていると、いじらしいような微笑ましいような印象になる。そして、多くを語らない彼の心の内を自分の中で再現できるようになってくる。コミュ障なら分かり合える。

 感情を出さないとどうなるか。劇中、家福はちょっとナメられている。家福が舞台終わりに楽屋でメイクを落としていると妻の音が「挨拶をさせたい人がいる」と現れる。「着替えが終わったら」という家福の声が聞こえなかったのか無視したのか、音は若手人気俳優の高槻を呼び込む。そして高槻も家福の言葉を無視し舞台の感想を話し出す。それに対して怒ったり、ムッとした表情をしたりはしない。それなりの地位であるのに気を使ってもらえない。怒るのも大人げないけど、舞台終わりなんだから少しは労わってくれても良いのではと家福のことを愛おしく思えてくる。物語はその後、日々感情を出さない家福に対して、自らの感情に素直な音と高槻の関係が対照的に描かれる。

 家福が自宅に戻った際、妻の音が別の男(おそらく高槻)を連れ込み行為に及んでいる所を目撃する。幸いあちら側に自分の存在はバレていない。彼は静かに後ずさる。その場で怒ったり悲しんだりはしない。嫌なものを見て絶句しているようにも思えるし、邪魔して悪かったかなというニュアンスさえ感じる。
 とても衝撃的な場面ではあるが、私はちょっとだけ可笑しく感じていた。嘲笑しているわけではない。やさしさと悲しさと情けなさが同居した彼の背中を見て、自分もきっと「後ずさる」だろうなと思ったからだ。
 あの後、一人になった家福がどんなことを考えていたのか想像してみる。声をかけるべきだったのか?何て?男としての甲斐性がなかったのか?あんな声、自分の時には出してたっけ?そもそも急に家に戻ったのがいけなかったのか?今度からは連絡を入れてからにしよう。そうすれば少なくとも鉢合わせすることはないだろう。そうすればきっと、妻も自分も傷つかない。
 家福は音と対峙せずやり過ごそうとする。妻に対してもコミュ障っぷりを発揮する。そんな彼の「やさしさ」がどんどん自分自身を縛っていく。悲しませないようにと自責の念を膨らませる。それに押しつぶされないように感情をなくしていく。そんなコミュ障のらせん階段を転げ落ちていくように感じた。

 私自身ハッとさせられたのが警察署の駐車場でのシーン。家福の演出のもと舞台稽古に励んでいた高槻がトラブルを起こし警察に逮捕されてしまう。主催者から早速、舞台を中止にするか家福が代役を勤め開催するか問われる。「今ここで?」と少し感情を出して家福は反論する。高槻が心配なのだ。私も主催者はずいぶんドライだなと思った。しかし、主催者からは「私たちに他にできることはありません」と答えが返ってくる。ぐうの音も出ない。
 確かに、家福は何をしようというのか。私も何を期待していたのだろう。高槻を救うつもりなのだろうか。どうやって?高槻と面談して更生を促そうとでも言うのか。コミュ障のくせにコミュ二ケーションで解決しようとする。主催者は冷たいとかそんな次元の低い話ではない、目の前の「できること」を無視してまで優先すべきことですかと問いかけてくる。家福は結局、現実と向き合っていない事が露呈してしまう。物語に期待を込めてしまう私にもリアルを突きつけられる。


 物語終盤、家福はみさきの前で妻への後悔を口にし、涙を流す。もっと彼女と向き合うべきだったと。そうすることでやっと、人としてのゼロ地点に帰ってくる事ができたのだ。この物語の中で彼の人生がプラスになることはない。そして今後もおそらくない気がする。これは真面目にコミュ障をやっている私としてもツライ。正直言って感情のままに生きる音や高槻がうらやましく思う。もちろん代償として高槻は逮捕され、音は急死する。(音の不倫と急死の間に実際の因果関係はないが。)劇中に演じられる『ワーニャ伯父さん』のように真面目に生きた最期、神様に憐れんでもらうくらいでは割に合わない。恥ずかしい話だが、真面目に生きている分のご褒美ちょうだいよと思ってしまう。プラマイゼロなら上出来。人生とは不条理なものだ。それでも真面目に生きていかなくちゃならない。エンドロールを見ながら少し不貞腐れてしまった。


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