『体験格差』のこと

『体験格差』(今井悠介著、講談社現代新書)を読んだ。この20年くらいのあいだ、学校、ホール、美術館などで子どもとその保護者と接してきた身としては、常日頃感じてきたこと、そしておりおり問題提起として話したり書いたりしてきたことを裏付ける実態調査と当事者の言葉ばかりであった。はじめに、わたしがさんざんあちこちで書いたり話したりしてるエピソードをご紹介したい。

以前、ある政令市の公立美術館の学芸員から聞いた話だ。この美術館では毎月1回、休日に小学生を対象としたワークショップを開催していて毎回定員いっぱいになるという。ところが、ある回で申し込みが少ないことがあった。なぜか調べてみたら、その日は私立中学受験を目指す小学生を対象とした統一模試が行われていたことがわかった。なるほど、ワークショップの毎回の盛況は、そういう家庭の子どもたちがいたからだったのかと、薄々気づいてはいたけれども、思い知らされたという。 

わたしも、公立の文化施設や行政が設えた事業として子どもを対象としたさまざまな参加体験型のプログラムを企画したり運営したりしてきたけれど、参加費は無料か、保険代程度の安価(500円とか)なもので、わたしたちとしてはできるだけ、普段から習い事やそういう体験(演劇や美術など)をしたことのない子どもたちに参加してほしいのに、日々の習い事の間を縫うかのようにして、キレイにおめかししてニューバランスか何かのシューズを履いているような子どもたちが、時間的にも経済的にも余裕のありそうな保護者(偏見込み)に連れられて参加してくる光景をたくさん見てきた(ちなみに、500円くらいの安価な参加費であっても躊躇する家庭のあることは本書でも触れられている)。

『体験格差』で統計的に立証されていることだが、保護者の体験の有無が子どもの体験の有無と関係してくること、そして何より経済的な事情が子どもの体験の有無に大いに影響してくることは想定していた通りだ。本書で挙げられている体験格差の要因は複数あるのだが、大雑把に大きな背景を挙げると、経済的に余裕のない家庭で育った子どもが、習い事や文化・スポーツ等の体験をしてきた割合が低いことの要因は、その子どもが親となったとき体験で得られたポジティブな記憶を備えていないから子どもに習い事等の体験をさせることもないからである。更に踏み込むならば、大きな前提として(本書では統計的な裏付けはされていないが)、子ども時代に経済的な事情により様々な選択肢が奪われたことによって、大人になっても就学や就労においても選択肢が狭まり、経済的に困窮する環境に身を置くことになってしまうこと、そしてそれゆえに経済的事情で自らの子どもに様々な体験の選択肢を与えることができない、というスパイラルがあることも忘れてはならない。

本書では体験格差を是正するための提案として、1実態調査の継続的実施、2費用の補助、3体験と子どもをつなぐ支援、4体験の場で守られるべき指針の設定、5公共施設の維持活用、を挙げている(本書をもとに要約しました)。一方で、文化芸術セクターでは本来的な目的として格差是正を置いているかどうかは別として、公共ホール等を中心にいわゆる学校等へ出かけてワークショップなどを行うアウトリーチが盛んなことはご承知のとおりだ。学校教育の現場で様々な体験を均しく子どもたちに提供することは確かに意義のあることなのだけれど、こうした文化芸術体験を提供するアウトリーチというものが、どんどん制度化、定型化されることによって、授業の枠組みのなかに組み込まれ成果の求められる学習に回収され、学校外での体験にあるような子どもにとって想定外の非日常的な体験が奪われている現状があるようにも見える。もはや子どもにとってそれは、授業としての学習としての、日々の体験でしかないということだ(それも意味のないことではないだろうけど)。

本書で話題に挙がる子どもの体験の多くは、キャンプやスポーツなどがほとんどで、著者は地域の公共施設を活用することを提案しているけれども、いわゆる公立文化施設、美術館や公共ホールというものはあまり想定されていないようにも読めた。公立文化施設をはじめ文化芸術セクターの人たちが、統計的な裏付けをベースにしながら様々な支援策を講じている著者(とその団体)のような立場の人たちと共有できる課題は多いはずであるし、連携と協働の余地が大いにある領域ではないだろうか。少なくとも、本書にも紹介されているようにスポーツ分野の取り組みと比べても文化芸術セクターが遅れを取っていることは間違いない。



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