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消えた魚、生垣

アオギスのいた海  かなり強い引きがあった。澪(みお)に向かって斜めに立てかけた竿が砂浜に落ちて澪の方に引っ張られていた。リールを巻いて揚がってきたのは体長25㌢程度のカマスようで初めて見た魚だった。魚体は少し青みがかっていた。  えらぶたを動かしてはいたが、もう絶え絶えで、すぐに死んでしまった。後で振り返ると、「アオギス」だった。いるとは聞いたが、干潟のきれいな砂地の場所にしか生息しないと思っていた。澪は幅300㍍、深さ10㍍くらい。排水量300㌧級の大型船が航行する澪に、

    • 消えた漁法・内湾

        消えた伝統漁法  東京湾・内湾で古くから操業されながら、伝統漁法の技術継承が途絶えた。漁具を製作する鍛冶職人もいなくなったうえ、水質悪化による魚族資源の大幅な減少や、干潟の埋め立てで既に消滅した漁がかなりある。だが、沖合底曳き漁などまだ細々と続けられている消滅寸前の漁もある。ノリ養殖の盛んな内湾漁業にあって、小職(こじょく)とされる極めてマイナーな漁は、春から秋にかけての裏作だった。ほとんどが干潟の埋め立てで消えた。干潟の漁(すなどり)の記念碑として、高度経済成長時代以

      • ゴカイ類と藻場

        エサ掘り  ゴカイ 干潟や汀線の潮間帯、特に泥まじりの砂場や、塩分濃度の低い河口域の泥が堆積した場所に生息する。釣り餌に用いられる。体長7~10㌢程度で小太りもいる。体が柔らかく、遠投すると身がたまに切れることもある。匂いがあり、この匂いが魚を寄せ付けるという。 かつて、ゴカイ類を専門に採取する職人がいた。細長いスコップや鍬の一種マンガで表層から深さ20~30㌢ほど掘り下げ、泥や砂をほぐしてうごめくゴカイを取った。釣り道具店が買い取って店頭に並べた。職人は年老いた漁師上がりが

        • 干潟の漁2

          ワタリガニの網掬い漁 夏の夜漁。満潮時に水深5~7㍍ほどの潮が交じり合う場所が漁場。 ワタリガニ(ガザミ)はエサを求めて海面近くまで浮きあがる。白っぽく映るカニはまるでクラゲがフワフワと浮遊しているように見える。  船外機を付けた小さな舟(天馬舟)に2人が乗り込んで出漁。一人は船外機のかじ取り、操船役。もう一人は舳先(へさき)に座るか立つかして、先端に直径50㌢ほどの大きさのタモ網を付けた真竹の竿を持って、カニを掬い上げる。タモ網は手製。網は細い化学繊維で編んだ小さな網目で、

        消えた魚、生垣

          干潟の漁

          ハゼの手づかみ漁ハゼは夜、干潮の干潟で寝る。初の事例報告 ハゼが海水温の下がり始まる9月から10月にかけて、冬場に深場に入る前、夜半に干潮時の干潟で寝る。ウソだと思う人がいるかもしれないが事実だ。ひと休みしているだけかと思っていると、手づかみにしてもじっとしているので多分寝ているのだと思うしかない。 大きさは体調15㌢~20㌢とほとんど型がそろっている。深場に入るヒネハゼ、落ちハゼ級だ。夜8時過ぎごろ、大潮の干潮時、干潟はすっかり潮が引いて干潟のほとんどは干出している。干

          干潟の漁

          ウナギ採捕2

          シラス漁 冬季のカンテラ漁 列島各地にウナギの仔魚シラスウナギが毎冬回遊してくる。採捕には知事免許が必要だ。漁業者で免許を持つ父に連れられて師走の晩、冷え込みが厳しくなる深夜にかけてシラス採捕に出かけた。場所は海に隣接した干潟埋立地。幅約1㍍の雨水用排水路が縦横に張り巡らせており、大潮の上げ潮時で満潮に近い時間帯には海水が流入して深さが1㍍近くまでなった。 太平洋・相模灘に面した相模川河口域の波打ち際には夜、足の大腿(だいたい)まで長さがある「腿(もも)長」をはいた漁師が大き

          ウナギ採捕2

          ウナギ採捕

          ウナギの大量遡上  初の報告 水がヒタヒタ状態となった細くて浅い流れをウナギの幼魚が大群となって遡上する光景に出会った。成長して大きくなったウナギが秋ごろ、川を下るとは聞いていたが、幼魚が集団で大量遡上する光景には度肝を抜かれた。恐らくこの報告が初記録になると思う。 大量遡上を見たのは細流の小川。もともと農業用水で、小高い丘が連なるふもとにある農業用ため池を水源としている。水田に水が必要な春先からの時期は小川に板を積み上げて仕切りを設けてせき止め、一定の高さまで水量をためて田

          ウナギ採捕

          干潟の伝統漁法3止

          望郷・東京湾2 手繰り網漁(打瀬漁) 小舟に帆をかけて風任せで曳く、いわゆる打瀬漁として発展した。鉛や陶製の重りを付けた枠で海底を曳き、カレイ類やシャコ、イシガニ、クルマエビなどを採捕した。内湾の寒村では動力船の導入が遅く、60年代に入ってから。ほぼ専業の漁家しか持てなかった。漁場は干潟の先にあるアマモ、オオモ場の沖。大潮の干潮時で水深5~20㍍ほどの場所で網を引いた。 底曳きと中層曳き、表層曳きがあった。伝馬舟と呼ぶ小型の漁船に帆を掛けて、風 の力を利用して曳いた。 小型

          干潟の伝統漁法3止

          干潟の伝統業法2

          望郷・東京湾 藻場が消えた コアマモ  かつて干潟にはコアマモが群生していた。干潟が干出して陽光が照り付けても生きていられる生命力がある。アサリの貝捲き漁で使用する尖った爪先のマンガと呼ぶ採取道具で海底を掘り起こすのでコアマモは根こそぎ掘られ、アサリの採取場では数が少なくなった。埋め立てが進んで内湾でコアマモがあるのは三番瀬と富津岬の内側の干潟、盤洲干潟、木更津市の航空自衛隊基地の地先海面と小櫃川河口左岸と基地の間にある久津間、江川海岸周辺の浜ぐらいしかなく、しかも個体数が少

          干潟の伝統業法2

          干潟の伝統漁法

          干潟の伝統漁1 江戸前漁業  まず、干潟の伝統漁法や漁村集落の状況を概観する。 江戸前の漁業は、干潟での伝統漁法だった。江戸城に献上の魚を捕る御菜八ケ浦(芝浦、品川から相模国=神奈川県の生麦、子安など8漁村)の主に干潟とその少し沖合で捕れた魚貝を江戸前と呼んだ。徳川家康の江戸城入場を機に発展した江戸市中の人々の魚貝を賄ってきた。  八ケ浦で営まれた漁法は次第に、漁船や漁業資材も含めて内湾の干潟が広がる沿岸地域の村々に伝播した。海辺に田畑の耕作地が広がっていた集落では、漁業は年

          干潟の伝統漁法