ウナギ採捕
ウナギの大量遡上
初の報告
水がヒタヒタ状態となった細くて浅い流れをウナギの幼魚が大群となって遡上する光景に出会った。成長して大きくなったウナギが秋ごろ、川を下るとは聞いていたが、幼魚が集団で大量遡上する光景には度肝を抜かれた。恐らくこの報告が初記録になると思う。
大量遡上を見たのは細流の小川。もともと農業用水で、小高い丘が連なるふもとにある農業用ため池を水源としている。水田に水が必要な春先からの時期は小川に板を積み上げて仕切りを設けてせき止め、一定の高さまで水量をためて田んぼに水を引き込む。小川沿いの水田では稲刈りが近くなると水を落とすので、小川はほとんど干上がった状態となる。農業用水は住宅地に入ると、風呂の湯や調理場の水など家庭雑排水が流れ込み下流域は汚れていた。
ウナギの遡上を見たのは10月の大潮のころ。上げ潮の時間帯だったと思う。住宅街から200㍍ほど上流だった。細い流れが黒ずんで、なにやら動めいていた。目を凝らすとウナギの稚魚の大群が川を上っていた。川の中の水がない場所に下りて目を凝らした。無数のウナギの川上り。大きいのは鉛筆ぐらいの太さがあり、ほとんどがそれ以下のメソッコだったが、どれも魚体は黒々として立派なウナギだった。
稲の収穫を終えて水を落とし、稲わらを積み上げてあった時期、仲良しの友達と竹棒を手に川幅1・5~2㍍ほどを飛び越える遊びをした後の出来事だった。小学高学年の1957年か翌58年の秋だった。一人で家に戻ろうと、小川の土手を歩いていた。川では水の流れを板や土でせき止め、水をかき出す「かいぼり」をしてコブナやドジョウ、タナゴなどの小魚を捕まえて遊んだ。「かいぼり」の後はどうなったのか気になって、川の中を見ながら土手を歩いた。小川をせき止めて田んぼに取水する板をはめた堰は既にはめ板が外されていた。小川の真ん中辺りの流れは幅約15~20㌢ほど、水深は1.5~2㌢ほどしかなくヒタヒタ、水はチョロチョロとしか流れていなかった。夕方の西空は赤く染まっていた。
黒いウナギの列はずっと上流につながり、下流まで延々と続いていた。小川の河口まで1㌔㍍程度の距離。この行列が河口まで続いていたら、相当な数になると思った。20~30分ぐらい見つめていて、「すごいなあ」「すごいなあ」と驚嘆するだけだった。
「メソッコでもウナギ屋に売れる」と思った。とっさに網で掬い取ろうと考え、夕焼けに染まる空の下を駆け足で帰宅した。家に着いたら既に日が落ちて夕闇になっていた。父に「小さいウナギの大群が川を上っている。網を貸してちょうだい」と話した。父は「そんなことあるかなあ」と薄笑いしながら半信半疑の口ぶりで私の顔をのぞいた。もう辺りは真っ暗。網を手にしただけで照明道具もなく、子供一人、川に戻ることはなかった。
どこまで上るのだろうと思った。小川の最上流は農業用水のため池。付近一帯の田んぼは既に水を抜いてある。どこで生きていくのだろう。どうしてエサをとるのだろうとも思った。父も知らないウナギの川上り。小さな流れ、ドブ川のような細流でも大切なんだと痛感した。この光景は一生の宝ものになると思った。
ウナギが太さで直径3・5~4㌢程度にまで育つと集団で川を下るとされている。しかし、鉛筆ほどの太さのウナギ「メソッコ」が大量に遡上することは全く記録がない。恐らくこれが初の事例報告だと思う。
かいぼり
この農業用水にはシラスウナギや前記のメソッコが大量に遡上したと思われる、しかし、小学校低学年から高学年にかけて、水田地帯の延長200㍍区間にわたって農業用水が豊かに流れている時期、遊びで何度も4,5㍍区間でかいぼりをした経験がある。かいぼりはもともと農業用ため池の水を抜く時に使われ、換え掘りともいわれる。かいぼりする区間の上流と下流を板と土でせき止め、バケツで水をかき出し、せき止めた区間にいるフナやタナゴ、ドジョウなどを採捕した。何度もかいぼりをしたが、用水の両壁面に穴や割れ目を点検したもののウナギがいたことは一度もなかった。
遡上したはずのメソッコやシラスウナギはどこに行ったのか、もっと上流まで遡上したのか追跡しなかったが、ウナギの影も形もなかった。水田への用水取り入れにまぎれて水田に入ったのか確認のしようもなかった。どこへ消えたのか。きっと大きく成長したら農業用水を下って海に降下したかもしれない、今にして思えば、もっと追跡した方が良かったと思う。
かいぼりは農業用ため池など小さな湖沼で稲作を終わった晩秋ころ、湖沼の水を抜いて湖沼に生息するコイやフナを採捕した。湖沼の底のたまった泥は肥料に使った。泥を掻き上げる際、ウナギやナマズがいるときもあった。池や濠の水を抜いて生息するコイやカメ,、スッポンなどを捕獲するTV番組がある。ウナギが採捕される場合もある。
3面コンクリート化
1960年代の河川は小川でも流れのある土手にウナギが入り込むような穴が無数にあった。川でウナギを捕獲する人に聞いた話では、ウナギの好物はミミズ。それも一番太く大きなタロミミズだという。ウナギ針にタロミミズを刺し、テグスでもタコ糸の道糸を小さな棒切れやタケに括り付け、土手の穴近くに刺しておくと、朝方引き上げるとウナギがかかっているのだという。「穴釣り」といって静岡県伊豆半島の中央部を貫流して沼津市で駿河湾に注ぐ狩野川ではウナギ採捕の主流だ。ウナギはミミズを食べているのだと思った。ミミズだけではない。生息する、その海、その川の生き物をエサにしている。これは子供のころ、釣りをしていて分かった。池のウナギはミミズで釣れる。小さなエビ類や汽水域の泥に住むゴカイ類だけでなく、アサリを好むウナギもいる。
ウナギが河川を上ることは知られていたが、生活雑排水が流入するドブ川や、流水が渇水期にチョロチョロ程度しかない細流でもウナギの仔魚が上ることは知られていなかった。シラスは海に注ぐ細い流れ、小さな水たまり程度でも流れがあれば遡上する。この生態観察からして仔魚が細流を遡上することは容易に推論できる。
日本の都市計画、特に土地区画整理事業を伴う都市づくりは、土地の有効利用、配分する事業用地の確保だけが優先され、これまで存続してきた、昔ながらの自然状態を無視して細流を排水路に変えてしまった。都市計画の理念そのものに自然を大切にという考えが欠けていた。
浅海、特に干潟は埋め立てがしやすかった。干出した場所の周りにカラマツの丸太棒の杭を打ち、平板を積んで囲った。大船が航路する航路を浚渫し、その土砂で干潟を埋めた。埋め立てが終わった後には雨水を流す3面コンクリートの排水路が縦横に設けられた。埋立地に隣接する田畑も区画整理事業が行われ、宅地や工場用地となった。区画整理事業用地も縦横に雨水など都市排水の排水路と下水路が設けられた。田畑を流れていた小川、農業用水路の細流は埋立地の排水路と同じように3面コンクリート張りの排水路と化してしまった。排水路の上にコンクリート板をかぶされた細流もあった。
列島全体で中小河川の改修で都市排水路化と護岸改修が行われた。細流のほとんどは排水路か下水路と化した。平坦地と続く細流の上流部は奥の方まで森の木々を伐採したうえ建設残土などの土砂捨て場、廃棄物処理場と化し、埋め立てられることが多かった。下流域は底地と左右の護岸をコンクリートで固める3面コンクリートにした。ウナギは生まれ故郷の川を遡上するサケなどと同じように、上流部の山や森のにおいをかいで自分の育ちを知るといわれる。南太平洋のマリアナ海溝付近の生まれであっても、列島にやってきて遡上した場所、育った場所を忘れない律儀さがある。
こうした排水路、下水路と化した細流は大雨時には一気に海に流れ出て、渇水時や降雨がない時は干上がる。川に生息する生物にとってこれほど過酷な環境はなく、エビや小魚などウナギが捕食する生物も生息しない。それどころか、ウナギの住む場所、隠れる場所がない。ウナギの漁獲が減ったのはこのツケが回ってきたといっても過言でない。
埋め立ての元凶
干潟、浅海の埋め立て・干拓は食糧増産、都市住民の出すごみ処理などのために古い時代から進められ、江戸時代に急拡大した。中国地方10カ国を差配した毛利藩は関ケ原の戦いに敗れた石田三成に加勢したかどで防長2州に閉じ込められた。家臣の中には武士をあきらめて農業、漁業に従事した人もいて、とにかく食糧確保のために瀬戸内海に面した干潟、浅海は軒並み埋め立てられたという。これを見て近くの藩も埋め立て事業を推進した。
古い時代から埋め立て事業をする側は、細流が持つ役割を知らなかったか、知っていても食糧増産と天秤にかけて無視した。この知らなかったか、生態系の重要性の無視が明治、大正、昭和、平成、令和の各時代も続いてしまった。どこかでこの流れを止めないといけなかったのに官僚制度、官僚行政は継続を重視し、予算を絶やさないように保持して継続する習癖があって流れを断ち切ることはできなかった。
国内の海岸沿いの土地区画整理事業はおしなべて細流を埋め立てたり、流れの上に蓋をしたり、流れそのものを排して排水管を埋設したりして、つぶしてきた。細流や小川の果たす役割、大切さを知らなかったのだと悲しくなり、子供のころ、こうした小川や細流で遊んだことが無かったのだと思った。
東京湾埋め立ての突破口を開いた浅野総一郎は浅野セメント(現在の太平洋セメント)など浅野財閥の創設者と知られている。干満の差がほとんどない日本海側の富山県の出身。浅野を支援した安田財閥の安田善次郎も富山県の出身。日本海側は大き目の干潟がほとんどない。浅野も安田も恐らく、子供のころ、干潟で遊んだ経験、小さなカニなどに遊んでもらった経験が皆無だったと思う。浅野は京浜港を築き上げた大功労者とされているが、東京湾の自然を守りたい立場からすれば、東京湾の干潟、浅海をつぶした元凶、ディズニーランド用地を主に千葉県側の埋め立て事業を推進した三井不動産と同様、干潟を壊滅させた元凶でしかないと思う。
元凶の一つは行政
区画整理事業を推進し旧建設省、港湾事業を進めた旧運輸省、海を守らなかった農林水産省、見て見ぬふりをした環境省など中央省庁の官僚こそ日本を滅ぼす元凶ではないかと思った。特に旧運輸省(現在、国土交通省)が悪い。干潟と干潟の沖に広がっていたアマモ場を復活させようと国土交通省の出先機関・国土技術政策総合研究所が取り組んでいるが、干潟とアマモ場を埋めてていながら今度は復活だなんて、あまりに茶番でしかない。そこまでするなら、干潟や浅海の埋め立てはやらないことだ。
漁業者は新鮮な魚介を供給する役割を担うだけでなく、水質汚濁、海洋汚染を防ぐ見張り番だ。その意味で、国民の健康と命を守るという役割は極めて重要だ。東京湾での埋め立て事業の歴史を振り返ると、カネにつられてやすやすと江戸時代から集落で受け継いできた地先漁業権、沖合漁業権を放棄したのが大間違いだったと思う。
浅海と干潟の埋め立ては公有水面埋立法の事業認可が必要で、海面と干潟の漁業権を持つ漁業者への漁業補償金が巨額となる。東京湾では江戸時代からの集落ごとの地先漁業権と沖合操業の権利を持つ沖合漁業権がある。干潟埋め立ての場合、たいがい地先漁業権と沖合漁業権の補償がセットになる。
地先漁業権の方は集落の前浜に広がる干潟埋め立てに伴う漁業補償、この干潟埋め立てに伴って埋立地に立地する事業所の港湾建設が行われることが多い。このため干潟の沖合で操業する沖合漁業権も同時に補償した方が補償する側も補償される側の漁業者をまとめる側も手っ取り早い。問題はこの港湾区域の設定が曲者だ。港湾建設は港湾管理者が埋め立て免許権者に審査を求めて国土交通省の認可を受ける。まるで同一人が一人二役の演技を演じるようで、ヤラセもいいとこだ。やれ、堤防を新設する、ゴミの島を設けるなどをほとんど好き勝手にやりたい放題。国土交通省の大臣と都道府県知事の許可が必要だとしても利害は一致しており、同じ穴のムジナでしかない。東京港や大阪港などの拡大もこうして進められてきた。
港湾局の毎年度の予算がある。概算要求で関係大臣と財務大臣との大臣折衝の後、政府案がだいたい12月下旬にまとまる。概算要求だから全国の港湾建設事業費がひっくるまっている。だからどこの港湾建設に幾ら程度の予算がついたという発表のされ方はない。ところが新年度前の1月、港湾関連建設業者の
新年会があるとする。いわゆる港湾施設の建設工事を中心とする、いわゆる「ゼネコン」をもじった呼称の「マリコン(マリーン・コンストラクションの略)」の集まりだ。この場に港湾局のか課長クラスの幹部が招待され、驚くことにまだ決まっていないはずの新年度の国内各地の港湾建設の個所付け(予算配分)が口頭で説明される。まだ、どこにも発表されていない予算配分が、業界団体だけに優先的にしかも内密裏に説明されるのだ。この説明者にある団体幹部から分厚い封筒に入れた謝礼金がわたされるのをしっかり見たことがある。港湾局だけでなく国土交通省と関係団体の癒着でしかない。日本が近代国家になったとされる明治時代から港湾建設はこうした産官の癒着の中で進められてきた。
東京湾の中の瀬航路は大型船の航行がひしめく。もう東京湾も東京港も満杯でこれ以上の航行、入港は限界だという理由で太平洋側などの外海に面して新港の新規建設が進められた。その一つが茨城県の茨城港(常陸那珂港)。中核国際港湾・重要港湾として東、京港の荷物を分散する新港という鳴り物入りで外洋を掘削して航路を設けて建設された。地元の建設業者は大型浚渫船を買い求めてマリコン業者になった。
浅野壮一郎が1908(明治41)年の設立に関与した港湾建設業者「東亜建設工業」は設立から間もないころの会社名はズバリ「東京湾埋立株式会社」(1920年設立)だった。
余談だが、竹下元総理が多くの株を持っていたとされ、政界や東京証券取引所のある兜町では「竹下銘柄」といわれていた。選挙の時など、やたら株の価格が変動した。
シラス漁
冬季のカンテラ漁
列島各地にウナギの仔魚シラスウナギが毎冬回遊してくる。採捕には知事免許が必要だ。漁業者で免許を持つ父に連れられて師走の晩、冷え込みが厳しくなる深夜にかけてシラス採捕に出かけた。場所は海に隣接した干潟埋立地。幅約1㍍の雨水用排水路が縦横に張り巡らせており、大潮の上げ潮時で満潮に近い時間帯には海水が流入して深さが1㍍近くまでなった。
太平洋・相模灘に面した相模川河口域の波打ち際には夜、足の大腿(だいたい)まで長さがある「腿(もも)長」をはいた漁師が大きな網を持って寄せる波をすくい上げる。あげてからシラスが入っているかどうか確認する。ひとしゃくりで1匹入っているかどうかだ。
シラスは相模川を遡上しようと河口域に近づく。河口は閉塞状態で引き潮の時は海側から河口の場所を見つけるのが一苦労だ。シラスは相模湾に流入する河川を遡上する。小田原市の早川以南の一部河川は急流河川だが流れが穏やかな河川もある。小河川にはダムや取水堰など遡上を妨げる障害物はなく、護岸も自然護岸で生息環境は悪くない。相模川や小田原市の酒匂(さかわ)川にはダムや取水堰があるが魚道が整備され、ダムや取水堰の手前には本川に注ぐ支流もあるため、支流に入るシラスもいる。
採捕するタモ網は手作り。タモは太目の番線を曲げた正方形型(縦横30~40㌢)で、この正方形に合うように薄いさらし生地で底が浅めの網にした。番線は太さ2、3㌢の長さ1~1・5㍍の竹竿にくくり付けた。水面を照らし出す照明道具は小さなバッテリーを電源にしたヘッドライト。カーバイトのアセチレンガスを使ったカンテラでもよかった。
水路は狭いので多少の風が吹いてもさざ波が立たず、水面は見やすかった。上げ潮に乗ってシラスが続々と遡上した。白い小さな魚体をくねらせながら海面を泳ぐ。ライトを当てれば白く浮き上がるから用意に見つけることができる。待ち構えていて近くに来たらタモ網ですくい上げる。1回の網すくいで2,3匹取れる時もあるがほとんど1匹ずつ取ることになる。夜間とはいえ実働時間の短さや体を動かす運動量の少なさから、結構良い稼ぎだと思う。
お猪口一杯1万円
上げ潮が止まると遡上数も減り、潮が引き始めると遡上するシラスは皆無となり、採捕漁はここで打ち止めとなる。
ウナギ卸問屋での買い上げ相場は1960年代後半でも、日本酒を御燗にして飲むお猪口一杯のシラスで1万円だった。お猪口一杯は一勺(しゃく)と言って日本酒15~18㍉㍑入った。グラム数に換算して15~18㌘程度になる。シラス1匹の重さを図ったことはないが、少なくとも30~40匹はいたと思う。今は1匹500円が問屋での買い取り相場。20匹で1万円になる。
ウナギの産卵は日本から2200㌔㍍~3000㌔㍍離れた南太平洋のマリアナ諸島とされている。ここで産卵し、4,5日して爪楊枝のような細い棒状の仔魚になり、その後、葉っぱのような葉形状のレプトセファルスという幼生に変化し、この形で赤道辺りを流れる黒潮に乗って日本の沿岸に流れ着くとされている。日本に流れ着くまで約半年かかるという。この流れ付いた時は直径5㌢程度のシラスウナギとなっている。
シラスウナギは習性として真水の川に入る。大きな川でなく、小川や農業用水の細流でもいい。上げ潮に乗って川を遡上する。サケのように川で生まれ海に下って大きくなる魚を「降海型」と呼ぶが、ウナギはこの逆で「降河型」と呼ばれる。河川に入ったシラスウナギは真水に慣れながら気に入った生活の場所を見つけるまでどこまでも遡上して。湖沼に入るのも多くいる。
ウナギの完全養殖の研究が各地で進められ、養殖に成功というニュースも流れる。
〇
漁は原初的に見えないものを追う。これほど効率の悪い仕事はほかにない。腕の良し悪しは経験と勘が頼り。漁があるかないかはそれこそバクチ。あたればカネになるが、当たらない方が多い。だから舟に魚を積むよりも、釣り人を乗せた方が確実に稼ぎがある。漁で稼げる漁師、稼ぎのいい漁師は「腕が悪いから」と釣り舟の転向漁師をバカにする。シラス採捕は見えるものを取るので、漁としては効率のいい方だった。
水質汚染
シラス採捕を始めたきっかけは、1960年代の後半、東京湾で水質悪化が進み、水銀とPCBが検出されて魚介類が一切売れなくなったからだった。ウナギにしても卸問屋が買ってくれなかった。日々の糧に困り、生活困窮から抜け出すために、「シラス取りはカネになる」という話からシラス採捕に乗り出したいきさつがある。一晩、ざっと1、2時間でお猪口一杯取っただけで1万円で買ってくれるから、寒いとはいえ、いい稼ぎだった。
小河川の下水化・ウナギの減少
ウナギは1970年代に入ってから漁獲量が減少し続けている。原因は様々な観点、角度から追及されているが、個人的な経験から思うことは、ウナギの生息環境が極めて悪くなっている。特に小河川の改変が著しく、ウナギの減少に大きく影響しているのではないかと思われる。
東京都や大阪府の大都市中心部を流れる河川のうち隅田川(東京都)など一部は下流域を中心に両護岸がコンクリートづくりになっているが、荒川や千葉県境の江戸川、神奈川県境の玉川など高水敷にある低水路の流路の両脇はほとんど自然護岸のままになっている。
大阪市の中央を流れる淀川も高水敷より低い低水路の両岸は自然護岸になっている。奈良から流入する大和川も低水路が確保されている。淀川は京都府南部で木津川、宇治川、桂川、鴨川が流れ込んで合流する。かつて合流点には大池の巨椋(おぐら)池があった。池というより周囲16㌔㍍、水域面積8平方㌔㍍という広さから湖で、流入河川の洪水調整の役割をしていた。巨椋池は現在、京都競馬場や久御山ジャンクション、巨椋池インターがある地域。
明治時代に入ると宇治川の河川改修に伴い巨椋池も変わり、昭和初期から第二次世界大戦中の食糧不足で1933(昭和8)年から1941(昭和16)年にかけた大型ポンプ排水による干拓事業で農地に変容した。水上交通の要所であり、ウナギなど淡水魚の宝庫だった。魞(えり)漁やウナギ漁が盛んだったという。チヌの海(大阪湾)から淀川を遡上して大池に入り、宇治川や木津川、桂川など大池に注ぐ河川を遡上したシラスもいたに違いない。
ウナギのかば焼きの発祥は京都とされている。初夏から7,8月の祇園祭を挟んだ挽夏にかけてハモがモテモテの全盛だが、もともとウナギ文化だった。京都市中心部にある「かね正」や「京極かねよ」などはウナ玉で有名。もともとウナギの食文化があったのだ。
自然護岸がウナギの生息にとって重要なことは前に触れた。ウナギは狭いところを好む習性がある。肉食性なので小エビや小ガニ、ヤゴなどが狭い隙間に入ってくると捕食。狭い場所に身を潜めて間近を通る小魚を捕食する。自然護岸があれば、護岸に穴や隙間が開くときもある。穴は主に小ガニが掘る。この穴や隙間にウナギが潜り込む。生きていく場所、エサを捕食する場所としてウナギにとっては寝床以上に重要な住み家になる。
天然ウナギはごくわずか
ウナギの生産量が急激に減少している。日本養鰻漁業協同組合連合会の資料によると、ウナギの生産量は1970年代から急激に減少。年間供給量は2000年をピークに、2017年には2000年比で76%減の約5万3324㌧だった。このうち国産は39%の2万2050㌧。残りは輸入モノで中国産が56%、台湾4%の割合。国産ウナギのうち天然ものはわずか1%、残り99%は養殖ものだ。天然ウナギの採捕で過去最低の113㌧しか水揚げがなかった2014年の資料によると、水揚げ量1位は大分県の21トン、次いで愛媛県16㌧、3位は茨城県14㌧の順。
国産ウナギの減少は河川での河口堰やダムなど人工構造物による障害、気候変動によって回遊から戻れない数の増加などさまざまな理由が指摘されているが、列島全体で細流の下水路、排水路化と水質汚染の影響がとりわけ大きい。
茨城県では利根川河口堰の建設で海水が入っていた霞ケ浦が首都圏の水がめとなりシラスウナギが遡上しなくなった影響が大きい。那珂川には本川にダムなど人工構造物がなく、天然もののアユ、ウナギが遡上する。太平洋と涸沼川でつながる涸沼のウナギもうまい。2011年3月の東日本大震災による東電第二原発事故による放射性物質の拡散の影響で涸沼産水産物の水揚げが急減、ウナギも出荷できなくなった。東京湾の水銀、PCB汚染騒動で東京湾産の天然ウナギを仲買卸問屋が買い取りしなくなったのに似ている。東京湾と同じように補償はなく、漁業者は泣き寝入りだ。
産地では四国・高知県の清流、仁淀川や四万十川のウナギは、いわゆるはえ縄漁や「ボサ」と呼ぶ柴漬け漁、竹筒漁で取る。徳島県の吉野川では9月からの「下りウナギ」が脂乗り良くうまいといわれている。愛知県の河口がある木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川もウナギの宝庫。竹を編んだ笯(ど)や筌(筌)と呼ばれる「もじり」漁が主流。
伊豆の中央部を流れ沼津市で駿河湾に注ぐ狩野川も人工構造物が無く、アユとウナギの宝庫。土手にできた穴に入ったウナギを釣る穴釣りが主流だ。浜名湖は養殖ウナギの代名詞のようになっているが、上流の都田川で採捕されるウナギは養殖物特別して「下りウナギ」として出荷される。島根県の宍道湖も汽水湖だけに天然ウナギが生息する。福岡県の筑後川、熊本県の球磨川も天然ウナギの産地で知られる。
細流の排水路化が問題
1960年代の高度経済成長期に入る以前、列島各地には海に流れ込む小河川、細流があちこちにあった。高度経済成長期に入ると、内湾の各地で工場用地確保のため干潟の埋め立てが進んだ。埋め立てと同時の埋立地と親切する田畑も工場用地や住宅確保のため、区画整理事業が推進された。この区画整理で田畑を流れていた農業用水や小川は暗渠の下水路、排水路と化した。暗渠路は上部もコンクリートの4面コンクリート。これではウナギが身を隠す場所もなく、生息は困難となった。
細流の3面コンクリート化は内湾だけではない。太平洋など外洋に注ぐ小河川も大水の排水機能だけを重視した河川・都市行政によって、どこも護岸が整備され、底も洗堀(流れのよる掘削)を防ぐためコンクリートで覆われた。川にはそこに生息する魚類などや植物がいるということを知りながら,人間の都合の良いように改修するから罪深い。結果、水が無い時の流路は干上がり、大雨が降ると川の水は一気に外洋に下る。こんな過酷な河川環境では生き物は生きられない。
しかも、この細流の上流部は建設残土や山を削った残土の捨て場にされて埋め立てられ、上流部が排水を流すだけの太い塩ビ管という細流もある。大雨で地盤が崩れて大きな崩壊を起こす心配があるが、カネ儲け一辺倒の業者には環境やウナギ、魚類など生き物は眼中にないのが当たり前。環境への配慮を考える業者でも、生息状況や環境改変の影響に考えが及ばない業者が多くいて、そこの組織の一部の人が「ウナギなど魚類の生息が危ない」と指摘しても、企業の利益優先の考えから異議をとなえた一部の人は別の場所に異動とか人事面で意地悪されることもあり、ここいらは一筋縄ではいかない面がある。
丸石蛇篭・護岸が有効
ウナギの生息環境を守る手立てはあるのかという疑問にぶつかる。子どものころからの遊び体験から個人的にはあると思っている。それは人頭大の丸石に握り拳大の丸石を混ぜた蛇篭を造り、これを護岸にしたり、川底の洗堀を防ぐ材料にして、ウナギの住み家を増やすことだと思う。一定程度川幅が広く水量がある河川は左右の護岸がコンクリートになった場所もあるが、まだまだ土手の自然護岸が多い。こうした川には人頭大の丸石を入れた蛇篭を投入するのがベターだと思う。土手の補強、洗堀が目立つ場所は洗堀防止のために丸石蛇篭を投入する。ウナギは丸石の隙間に入って休息するか生活するであろうし、石の隙間に川虫やスジエビ類を含めて小さな生物の住み家になる。ウナギの減少を抑え、数を増やすにはこの方法が一番だと思っている。
沖縄や有明海などの海、新潟県十日町市あたりの信濃川でウナギなど採捕に行われているスクイ(石干見)漁法は、海では花こう岩や安山岩などの石を丸く囲って高さ1~2メートルほどに並べて馬蹄形に積み上げ、干満の差を利用した潮を引いたころに石の間や囲いの中に入った魚を捕る漁法。川では河原の丸石を単に積み上げ、石の間に潜ったウナギを捕まえる。魚の習性を利用した縄文時代からの原初的なやり方だ。
この丸石蛇篭があれば、シラスウナギでも成長したウナギでも身を隠せて採餌もできる。川底や護岸などどこにあっても住み家になる。河川環境の保全を図って、丸石蛇篭を使った自然護岸造りが進んでいる河川もある。蛇篭は重いし、石を詰める材料を何にするかで資金がかることもある。ボランティアだけでは限界があり、行政の財政的な支援が絶対的に必要だと思う。
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