干潟の伝統業法2

望郷・東京湾
藻場が消えた

コアマモ
 かつて干潟にはコアマモが群生していた。干潟が干出して陽光が照り付けても生きていられる生命力がある。アサリの貝捲き漁で使用する尖った爪先のマンガと呼ぶ採取道具で海底を掘り起こすのでコアマモは根こそぎ掘られ、アサリの採取場では数が少なくなった。埋め立てが進んで内湾でコアマモがあるのは三番瀬と富津岬の内側の干潟、盤洲干潟、木更津市の航空自衛隊基地の地先海面と小櫃川河口左岸と基地の間にある久津間、江川海岸周辺の浜ぐらいしかなく、しかも個体数が少ない。
東京湾の近くでは相模湾に三浦市松輪にある江奈湾にコアマモの群生地がある。ここはかつて入江が丘陵のすそまで続いていた。戦時中の食糧不足の折、近くの横須賀にあった旧帝国海軍の食糧供給のために埋め立てられてサツマイモ畑になった。サツマイモ畑だった入江の奥はヨシが群生し、乾季でもヨシ原に一筋の細い流れがある。干潮時にはアマモ群落が広がる干潟となる。干潟には小型のカニ類、ゴカイなど底生生物が生きている。大雨が降ると上流の畑から表土が流出し、干潟を覆う。コアマモも表土で埋まる。しかし半年も経つとコアマモは復活して元の干潟の姿に戻る。
内湾ではかつて広大な干潟が形成され、コアマモ群落が干潟一面に茂っていた。千葉県側の干潟は場所によって汀線から沖合500~1000㍍にまで広がっていた。コアマモ場は幼魚になる前の生まれたばかりの仔魚、メダカ級の小魚が多く生息していた。
 アマモ場
干潟の先端、大潮の汀線から沖合は大潮の干潮時でも干上がらない海面が広がっていた。ここにアマモの群落があった。アマモ場は幼魚のゆりかご。メバルの幼魚やイシガニの子ども、タツノオトシゴなどいろいろな幼魚がいた。漁師たちはアマモの葉がニラに似ているので、ニラモと呼んだ。
 このアマモ場群落に沿って沖合に漁師がオオモと呼ぶ大型の海草が茂っていた。干潟に流れ込んだ泥はコアマモ、アマモ、オオモの群落によって浄化された。オオモの沖合は急な深場になる。その深場に近辺にオオモの沖まで流れた泥が堆積した砂泥地があった。オオモの繁殖地や沖合の砂泥地には、かつてタイラガイ(タイラギ)やトリガイが生息していた。タイラガイの生息が確認されたのは戦後間もなくまでといわれている。
内湾の場合、トリガイは10~30年に一度大量発生するが、毎年の漁獲はない。65年夏には大量にわいた。マンガ(掻き寄せ部が4本爪になった鍬の一種)を付け底引き網を機械船で曳いて漁獲する。漁師は「30年に一度の大量発生」と喜んだ。トリガイは自宅に持ち帰り、貝を剥いて身を取り出し。ノリを干す簾(す)の上に並べて出荷した。捕りたては身が黒光りして、噛むとシャキシャキして甘味が強い。
内湾のほとんどはこのオオモ場までの海面が埋め立てられた。埋立地のすぐ起きは大型船が接岸するため、浚渫された深場となる。
 
ウナギ・カマ漁
内湾で1970年代前半ごろまで行われていた伝統漁法を概観した。ウナギ採捕のカ
マ漁はうなぎ掻き漁ともいう。資材は鉄製の引っ掛け用具。3本の細長い先端の尖(とが)った爪を付けた鉄棒(長さ約1㍍)を直径6~8㌢の杉丸太に括り付ける。杉丸太ではなく細い孟宗竹の場合もある。先の爪3本を両脇につけたカマもあり、筑後川河口域ではこの6本爪を使うところもある。
カマの先端の爪の幅は5,6㌢。かつてはカマ棒は集落に1軒はあった鍛冶屋さんが製作していた。 漁場は干潟が広がっている場所は航路の澪筋が主。ウナギが生息する河川・湖沼でもカマ漁が盛んで、利根川や筑後川など大きな河川の河口域、湖沼では三方五湖など国内各地で漁が行われてきた。
 舟の縁(へり)に立で櫂(かい)をこぐようにカマを入れてひっかく場合や、水深がある場合、舟縁に立ち、そのままカマを沈めて縁先に棒を当てて、梃子(てこ)の原理を応用して底をひっかく。
 ウナギはカマにかかるとそのまま舟の堂の間にある生け簀か笊(ざる)に入れる。カマの爪先がそれほど狭くないので比較的大きなウナギが捕れる。
ポッポ漁
 ウナギの採捕ではウナギ筒(ポッポ)漁も盛んだった。資材は孟宗竹。口径6~8㌢の竹を長さ80㌢~1㍍ほどに切断し、中の節を鉄棒で砕いてきれいに落とす。通常は2本だが1本の場合もある。2本の場合は筒を荒縄やシュロ縄で結わえる。筒は、2本の場合、結び目の2カ所に道糸となる荒縄を通しミチ縄にして、1本の場合は荒縄を通しやすい結び目を作り、荒縄を通す。
ウナギの生息しそうな砂泥地や泥がたまりやすく、大潮の干潮時でも1㍍以上の水深があり、深場の底が泥地状態になっている航行路の澪筋に仕掛ける。通常、ポッポは3㍍ほどの間隔で20~30本の数を仕掛ける。
ポッポを引き上げる際は二股の分かれた枝を利用した直径40~60㌢、深さ70㌢ほどの大きなたも網を使う。1日か2日に1回、干潮時に引き上げる。ウナギが逃げないように静かに引き上げ、ポッポを揚げる際にたも網を入れて、ポッポを立ててゆする。大きなウナギの時は1本の筒に1匹入るが、口径が大きな筒には2、3匹入っていることもある。
捕れたウナギは傷がなく、高値で売れた。主とした魚はウナギ。時たまマハゼが入る。
干潟には東京水産大学(東京海洋大学)の水産実験場・研修場も設定されていた。この砂地の干潟にポッポが多く仕掛けられていた。干潮時には干上がる場所。いたずらで何度もポッポを引き揚げたが、一度もウナギが入っていたことはなかった。ポッポを仕掛けた大学の講師も学生もこんな場所ではウナギは採捕できないことを知らなかったかもしれない。この実験場で学生の姿を見たことは一度もなかった。
シラスの採捕
汚染魚騒ぎで採捕したウナギが売れなくなって、漁師たちは次はニホンウナギの仔魚、体長5、6㌢程度、体重0・2㌘のシラスウナギを捕獲した。1960年代後半、おちょこ一杯(17,18グラム)で1万円もした。
採捕には知事許可を得た許可証持参。採捕場所=上げ潮時に潮が入りこむ細流や河川、河口付近の波打ち際。干拓地に造られた掘割条のクリーク、ドブ状の場所でも潮が入りこめば遡上する。1960年代は沿岸にはまだ企業が立地していない干拓地がたくさんあった。農業用に利用される干拓地もあり、こうした干拓地では雨水の排水路として掘割が設けられており、恰好の採捕場となった。
カンテラなどの照明具で水面を照らすと、白くて細い仔魚が遊泳しているのが分かるので、細かい網の目状の紐網かさらし生地の網、金網のタモですくい取る。
上げ潮から下げ潮が始まるまでなので川やクリークでは採捕時間は1、2時間。大きな河川や波打ち際では干潮時でも採捕可能だった。河川では岸際に沿って泳いでくる。
カンテラは1960年代初め頃まではカーバイドのアセチレンガス灯を使っていたが、65年ごろからバッテリーを電源にしたヘッドライトを使うようになった。照明が明るいほど白い仔魚を見つけやすい。逃げ足が遅いので簡単に採捕できる。
ウナギの仲買・卸商のところに持っていくと、おちょこを計量用に使い、一杯1万円で買い取った。目分量でおちょこに半分ぐらいなら5000円とざっくりした量り方。一晩に1万円は軽く稼ぐことができた。多い晩は2万円ぐらいになった。細流やクリークなら岸の土手の上から網を伸ばせたので、子供でも安全だった。細流での採捕は大潮時期に限った。
 シラスが一般的にかば焼き用の体重200~250㌘ほどの「中」(ちゅう)に成長するには6、7年かかる。川で暮らしていたウナギは、体が青色っぽいので通称アオと呼ばれる。日本的な色の呼び名で言ったら、深い藍色に鼠色がかかった藍鼠(あいねず)あるいは濃い群青色と表現した方が正確。海で成長したウナギはほとんど黒っぽく、脂が乗ったウナギは胸びれや腹のあたりが金色になる。
ウナギでうまいのは太さ3、4㌢の「中」(ちゅう)と呼ばれる。仲買の買値も高く、鰻屋でも高価。太さが5㌢以上あり、重さが300㌘以上の大物は、「ボク」と呼ばれて、皮や身が幾分固いのと脂がきつ過ぎるので「中」より安い。鰻屋ではほとんど仕入れない。
ウナギ登り
 小学4、5年生のころ、稲の取り入れが終わって1、2カ月ほど経った夕方、水田は水が抜かれて土が固まり、恰好の遊び場となった。農業用水も兼ねた幅1・5~2㍍ほどの小川も水量がほとんどなく、細い流れはさらに細くなって幅20~30㌢、水深3~5㌢程度なる。遊んで細流の土手を通って帰り際、下をのぞくと黒い塊がごっそり、細流を埋めていた。下に降りて見たら、ウナギの子供が大量に川を上っていた。
干潟の海から約1㌔㍍付近。大潮の満潮時になると海水が300~400メートルほど遡上するが、この場所までは遡上しない。細流の水はわずかながらに海に向かって流れている。
ウナギは黒い流れとなってその下流まで途切れなく続々と細流を遡上。日が暮れかかる中、驚いて30分ほど眺めていた。大きいモノは鉛筆の太さぐらいで、長さ25㌢から30㌢ぐらい。これよりも小さな、メソッコと呼ばれる稚魚が多くいた。
野球少年だったので近所の仲良しとチームを作り、バットやグラブ、軟式野球の玉などは、川のかいほりや干潟で泳いだ際にこっそりポッポを引き揚げて採捕したウナギを売ってその金で調達していた。ふと、「網で捕まえなくては。打ってバットを買おう」とひらめき、夕やみが迫る道を駆け足で帰った。しかし、帰宅するともう当たりは真っ暗で彰混ざるとを得なかった。この光景は何十年たっても瞼から消えずに残った。後にも先にもこんな衝撃的シーンを目撃したのは初めて。
いつも海を見ていて、漁師たちの出漁時期からして、恐らく、満潮時のできごとと推察できた。赤潮や青潮のいわゆる「苦潮」(にがしょ)の発生が無かったことなので、苦潮を避けて遡上したのではないことは明らか。生態上なぜ、海で成長したウナギが川に上るのかはいまだに分からない。ウナギが真水を求めて登るのか、ウナギに聞いてみないと分からない。
シラスが川の上るということは聞いていたが、既に体色が黒くなったメソッコが大量に川を上ることはどの専門書にも書かれていないことだった。これこそウナギ登り。ウナギが海に下るのは一度も見たことがない。アオという降下型のウナギはもちろん見たことはない。
 柴漬け(シッパ)漁
スダジイやカシ類の常緑広葉樹の枝とシノダケの先を揃えて長さ1㍍ほどにして根元を結わえた、いわゆる柴類が漁具。この20~30個を長さ4、5㍍間隔で荒縄に結び付けて大潮の干潮時にも干上がらない澪筋に仕掛ける。主にスダジイの枝を使ったので椎(シイ)がなまってシッパとなったと思う。
6月中旬ごろに仕掛けて1週間ほどして潮になじめば、魚類がすみかとして利用する。「中」ウナギやギンポ、シバエビ、イシガニ、メバル(当歳魚から2歳魚)などが入る。柴漬けを静かに引き揚げて、二股に分かれた枝を利用したり、鍛冶屋に特注した鉄製の大きなタモ網に柴漬けを入れて揺すぶると、潜んでしたウナギなどが出てくる。ギンポ、シバエビはこの漁獲が最も多く捕れる。
最も漁獲が多いのは盛夏の7、8月。スダジイなどの常緑葉が枯れて茶色に変色するといかにも漂着物が沈んだように見える。日陰となって暑さから逃れ姿を隠せて休める格好の場所となる。
漁獲量はそれほど多くないので、ウナギは仲買商に売った。イシガニやシバエビ、ギンポは漁が少ない場合は自家消費用に、ある程度まとまった荷があれば魚市場ではなく、街に魚屋に買い取ってもらった。
 シバエビはてんぷら用か佃煮にした。ギンポは三枚に下しててんぷら用の具にした。煮るとシコシコとして身も皮も固い。イシガニは茹でるか醤油味で煮るか味噌汁の具にした。
 他人が所有するスダジイやカシ類の枝をいただく際は謝礼を払う場合もあるが、収穫したシバエビやイシガニなどをお礼に持っていくケースがほとんど。シノダケは生垣や道端に茂っているものを刈り取る場合が多い。千葉県の内湾沿いの漁村にある漁師の家は屋敷の周りにマテバシイ(俗称トウジ)を垣根代わりの植栽してあった。伐採しても次から次を根元から新芽が出てくる。このトウジも柴漬け漁の素材に利用した。
 柴漬けと筒漁の場所は澪筋なので、漁師は互いの競合を避けるため、柴漬け漁をする人は遠慮して筒漁はやらず、漁場をなるたけ公平に利用する暗黙の了解があった。(つづく)

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