干潟の伝統漁法3止

望郷・東京湾2


手繰り網漁(打瀬漁)
小舟に帆をかけて風任せで曳く、いわゆる打瀬漁として発展した。鉛や陶製の重りを付けた枠で海底を曳き、カレイ類やシャコ、イシガニ、クルマエビなどを採捕した。内湾の寒村では動力船の導入が遅く、60年代に入ってから。ほぼ専業の漁家しか持てなかった。漁場は干潟の先にあるアマモ、オオモ場の沖。大潮の干潮時で水深5~20㍍ほどの場所で網を引いた。
底曳きと中層曳き、表層曳きがあった。伝馬舟と呼ぶ小型の漁船に帆を掛けて、風
の力を利用して曳いた。 小型舟の底曳き漁では舟に帆をかけ、風の力で網を引いた。風が弱い日和は舟の先端部分の舳(へ)先と後部の艫(とも)に三角形の帆、中央部の胴の間に長方形の帆と3カ所に仕掛ける三枚帆の場合もあれば、網を引いた舟が走るぐらい風がある場合は胴の間に張る長方形の1枚帆で舟を走らせた。風の強弱や風向によって帆を張る数と場所を変えた。風が弱い時は舳先と艫、胴の間に一斉に帆をかけた。
底曳き漁は網の下部の鉛の重りを付けた。網の入り口に長方形の鉄製枠を付けた。底曳き漁の主な漁獲は底生魚が主。クルマエビ、シャコ、アナゴ、カレイ類・ヒラメ、マゴチ、イシガニ、ワタリガニ(ガザミ)を取った。
中層曳きは海底まで網の底が付かない細目の鉄製枠を付け、網が浮くように木の浮きを付けた。フッコやススキ、イワシなど中層を遊泳する魚を狙った。表層曳きは網の入り口を木製の枠にして網の上部にアバと呼ぶ浮きを付けた。主にアマモ場やオオモ場を曳いて、シバエビやギンポを採捕した。重しは陶製だった。通称・藻流し漁と言った。シバエビやギンポは魚価が安くこともあって手間賃にもならないため自然に衰微した。
 昭和時代になって焼き玉エンジンやジーゼルエンジンの動力船に代わった。
65年夏、PCB汚染魚騒ぎがあり、全く魚が売れなくなった。このため1960年代前半で漁を止める漁師が多かった。この1、2年後から引き続き底引き網漁をした漁師も、73年の水銀汚染魚騒ぎでまたしても魚が売れなくなり、「東京湾ではもう漁はできない」と強いあきらめ感が漁村を多い、漁をあきらめる漁師がほとんどだった。
 動力船はだいたい2人乗り組みで、艫に網を引き揚げる動力の巻き機を備えてある船が多く、網は2人で引き揚げた。
小舟の帆をかけて風任せで曳く、いわゆる打瀬漁として発展した。鉛や陶製の重りを付けた枠で海底を曳き、カレイ類やシャコ、イシガニ、クルマエビなどを採捕した。内湾の寒村では動力船の導入が遅く、60年代に入ってから。ほぼ専業の漁家しか持てなかった。漁場は干潟の先にあるアマモ、オオモ場の沖。大潮の干潮時で水深5~20㍍ほどの場所で網を引いた。
桁(けた)網漁
 櫛の歯状の鉄製枠を網先に付け、干潟の先の藻場の沖で海底の砂地や砂泥地を10~15㌢ほどの深さで引っ掻きながら、ジーゼルエンジンを付けた動力船で曳く底引き漁。主にトリガイや赤貝、クルマエビ、シャコ、カレイ類など。内湾の千葉県側でトリガイが繁殖して個体数が増えて沸くのは10年に1回ほどとか最長30年に一度ぐらいとされている。
1960年代前半の年に一度だけ大発生した。「30年に一度」という沸き具合で、捕ったトリガイは殻から向いて身を開き、海苔を干す簀の子に6個並べて出荷した。水揚げしたばかりのトリガイはシャキシャキした歯ごたえで甘味がかなり強く、最上級のうまさがあった。寿司屋でもゴムを噛んでいるようなギシギシした歯ごたえで甘みがないトリガイとはわけが違う。京都府の舞鶴湾では養殖が行われ、天然ものと同じような歯ごたえと甘い食味がある。
内湾での桁網漁は、燃料代の高騰で漁獲量も多くないため、自然にすたれた。
刺し網(建て網)漁
 捕る魚種にとって刺し網の種類が変わる。稚魚が掛からないように網目の大きさや縦の長さが異なる。
 カレイ網は鉛の重りを付け、底地に着底するように仕掛ける。砂地の底地に生息するカレイ類やヒラメは夜行性なので夜漁が主。イシガレイ、マコガレイ、ヒラメを捕る。
 三枚網は網を三枚重ねた網で真ん中の網は網目が細かい。稚魚も掛かるのでほとんどが許可外の違法漁業。潮が上がり満潮時に近いころが狙い目。大型のススキやボラなど大型魚がエサの小魚を求めて沖合から浅瀬の干潟に入り込む。水深3~5㍍ぐらいが網の仕掛け場所となる。
漁獲は主に体長25~30㌢ほどのセイゴ、それ以上大きく60㌢ほどまでのフッコが狙い。フッコよりも大きく出世したスズキは掛からない。出世魚のトドまで成長しない体長40~50㌢のボラ。ボラより魚体の小さなイナも多く掛かるが売り物にならないので網から外して逃がした。ボラぐらいの大きさになると脂が乗って目が白っぽく濁っているが、かなり目が利く。網を察知すると網の上を飛び越える。
セイゴ、フッコ、ボラは漁獲が多ければ魚屋が買い取ったが、ほとんど自家消費用にするか、近所や付き合いのある近在の農家に分けた。セイゴとフッコは焼き魚でうまいとされるが煮ものでもうまい。捕りたてなので煮ると身がしまり、身が割れて醤油もしみ込んで美味い。
ボラは稚魚のオボコ、当歳から2歳魚までのイナは汽水域の河口周辺で主に生息し、川から流れてきた浮遊物を口に入れるためか身に油臭さがあることや、似ても焼いても身が水っぽいとされて、成長してボラになっても漁師はほとんど食べない。しかし、食通にいわせるとボラの洗いは極上の味という。刺身を冷たい水で何度も洗って皿に盛る。身はシコシコとして甘味があり、淡水魚のコイの洗いに似ている。焼き魚にするとコンロに付きっ切りで焼け加減を見るのが面倒なので、ほとんど煮魚にした後に焼き目を入れた。他人が言うほど臭みはなく、焼き目を入れただけで香ばしくなる。
コノシロも良く掛かる。コハダは寿司ネタとなり、漁獲が多ければ高く売れるが網にかかるのはコノシロが主、小骨が多く、売り物にならないが、捕ったばかりのコノシロを炭火で焼くと脂が乗って、かなり美味い。江戸の武士階層はコノシロを「己の城」として好んで食べたといわれている。
 建て網を張ってから、竹竿などで飛沫があがるほど網近くの海面を叩いた。
夜漁
戦後の50年代半ばごろまで、カーバイドを入れた筒状の缶に水滴を落としてアセ
チレンガスを発生させ、ガスの火を照明用にした。アセチレンガス灯の照明具をカンテラと呼んだ。ガスの火の大きさが明るさに比例し、水滴を多く垂らしてガスを多く発生させるとより照度が増す仕組み。夜漁はカンテラ漁とも呼ばれた。カンテラはお祭りなど露店の夜店でも照明用に使われた。
照明道具としてカンテラの次に登場したのが、12㌾の自動車用バッテリー 。これの電池で照明用のライトを点灯した。ライトの電球は200~500㍗の白熱灯。カンテラと比べて格段の明るさで潮の満ちた干潟で水が澄んでいれば4、5㍍の海底まで明かりが届いた。 白熱灯に変って、漁獲量も増えた。
ガザミすくい漁
直径25~30㌢のタモ網を細い竹竿の先端に直角に付けた漁具。ガザミ(ワタリガ
ニ)は夜行性で夜、エサを求めて海面を泳ぎ回る。ライトを当てるとまるでクラゲがプカプカ浮かんでいるように見える。ガザミは照明に集まる習性があるとされ、この習性を狙った漁だ。
ライトで海面を照らすとクラゲのように浮いていたガザミが、横向きに深い方に逃げる。逃げ足は速くなし、深みに向かって泳ぐのもゆっくりしている。この浮いている状態か逃げる時のガザミを網で掬う。
刺し網や底引き網で捕れるガザミは足がもげたりして値落ちする。型もそろっていない。すくい網で捕れるガザミは大きさの型がほぼ同じぐらいにそろっている。大きさがほぼ同じということは、人数がまとまった宴席に出せるので値が張る。
人間だれしも他人と比較しがちなので、宴席で出されたタイやガザミの大きさが異なるだけでも、「自分のは小さい」とひがみの文句も出かねないので、型がそろっていることは市場性が高くなる。すくい網で捕ったガザミは「江戸前のワタリ」として出荷され、1950年前後でさえ市場への卸値で1匹1000円もした。中身が詰まっていようがスカスカであろうが、型さえそろえばよかった。仲買、小売り店を経ると恐らく2000~3000円もする高値になる。
すくい網漁は通常1人で舳先にいて網を手に構える。天馬舟を櫂や櫓で操り、船外機付きならエンジンをスローに落として、ガザミを見つけながらゆっくりと進む。船外機はかじ取り棒に竹竿を付けて操船する。夏場の漁で、風波が強かったり雨模様の時化や干満の差が小さい小潮の潮時、カニが脱皮する満月か満月に近い月明かりの晩は休漁した。
2人の場合は、すくい手が舳先に、操船が船尾の艫(とも)に座り、ガザミを見つけた掬い手が「前」「もう少し右」「ちょい左」と声を出して操船を指示する。息が合えば、2人の方が多く捕れる。一晩わずか2~3時間の漁で30~50匹は捕れた。漁が少なく、10匹程度の時は自家消費か知り合いや近所に分けた。1匹のままゆでるか、1匹を半分に切ってみそ汁の中に入れた。みそ汁の入れるとイセエビと同じぐらい風味とうまみが強く、食べ方としては上級だった。
  メヅキ漁
 見突き、目突き漁とも呼んだ。昼漁のほか夜漁は照明具を用いた。 縦長の台形状をした箱の底にガラスを張り付けた「箱メガネ」を海面に付けて底を除きながら、一般的にモリとかヤスと呼ばれる「ヘシ」で海底にいる魚貝を突き刺して採捕する。国内各地の浅海で営まれている伝統的な漁法。「ヘシ」は「圧(へ)し」から来た漁師用語。
 箱はのぞく方の上も、ガラスを張った下も正方形。内湾で使う箱はのぞき口の上部に額を当て、反対側を前歯で噛めるようにした造り。額と歯で箱を固定し、左手で櫂や櫓を操りながら天馬舟を操り、右手に持った「ヘシ」で魚貝を狙う。
 「ヘシ」は、長さが5~8㍍ほどある細めの長い竹竿の先にヤスを取り付けて作り、魚用と貝類用の2種類がある。魚用は先が鋭くとがったハリ状の長さ10~13㌢ぐらいの細い棒5~7本を横並びに付けたヤスを付けている。貝類用はハリ先5本を円形状した作り。
 採捕場所の水深によって柄の長さを変えて使い、それぞれ3本ぐらい持って漁に出る。
主な魚は高値で売れるイシガレイ、マコガレイのカレイ類とヒラメ。アイナメ、メバル、マダイなども揚がる時もある。魚体の突く部位は、鮮度の落ちが早く、身も傷むため腹部や中央付近を避けて、頭か尾の方を狙って突く。なかなか難しく熟練がいる。
カレイ類やヒラメは付きそこなっても近くの砂場に潜って身をひそめるが、潜った場所の砂地が魚体状をしているため、習熟して目が慣れてくると、隠れた場所がすぐに分かる。貝は主にアカニシとイチゴ。この2種ともアサリなど二枚貝の上に覆いかぶさって中身を吸い取る。中身を吸い取られた貝殻の1カ所に5㍉ほどの丸い穴が開いている。
 
舟だまり
集落の前浜の干潟を利用する地先漁業権だけに集落ごとに地先の浜辺にごく小さな舟だまりがあった。舟だまりは小型のベカ舟(天馬舟)を係留する施設。舟を陸揚げして修繕したり、漁具などの資材を置く揚げ場があった。舟だまりの三方には沖合約20㍍の場所に風波除けの囲いを設けた。囲いはカラマツの丸太やモウソダケを埋め込み、長さ3~4メートルのトウジなどカシ類やタケ類をその間に挟み込んだ。三方の囲いの中間は幅5㍍ほど開いていた。
揚げ場は1辺が15㍍ほどのに正方形にして丸太づくりの板囲いを設けて1・2㍍ぐらいの高さまで埋め立て造成。海に面した三方に丸太棒を敷き詰めた勾配20度くらいに傾斜した幅5㍍ほどの桟橋を造った。大潮の満潮時には桟橋の中央部よりやや上まで海水が上げてきた。
伝馬舟と呼んだべか舟は囲いの中にある係留杭に艫をロープでつなぎ、舳先のイカリを下して舟が左右に動くのを止めた。機船は囲いの外側の澪沿いに係留した。べか舟は漁家1戸がだいたい2隻を所有し、アサリの腰巻漁に使うマキ舟をもつ漁師もいた。
大澪を航行する大型の貨物船などが発着、係留する港は築港と呼んだ。
トウジの屋敷林
千葉県では内湾沿いの海に近い半農半漁や漁家の大きな特徴として、常緑広葉樹マテバシイ(樫類)の屋敷林がある。マテバシイはトウジとも呼ばれた。敷地を囲うように生垣風に植栽して防風・防火林とした。もっと大きな役割は、刈り取った稲や枝豆の茎を干すハザかけ用や、揚げ場をぐるっと囲う防風・防波用、孟宗竹の支柱柵が一般的になる以前のノリヒビ用や柴漬け漁用、かまどや風呂釜で焚く燃料用の資材として利用した。
揚げ場用には比較的幹回りが太くて背丈があり、小枝に葉が茂った大枝を使った。柴漬け用は、主要資材のスダジイと同じように葉が茂った小枝を荒縄で束ねた。ノリ柵用は太さが数㌢以上、高さ4㍍ほどの枝を使った。
トウジの木は主幹や根元から伸びた太さ数㌢の枝を伐採しても2、3年すればまた枝が伸びる。おそらく、ノリ柵にモウソウ竹が使われる以前、シノダケを集めたヒビを立てる際、ヒビが倒れないように支柱に使ったように推察される。屋敷林としてトウジの背丈は屋根とほぼ同じくらいの高さになると上の方を伐採した。トウジの屋敷林は木更津市金田地域にいくらか残されているが、この半世紀ぐらいの間、半農半漁、漁家の減少や田畑の宅地化でほとんどが消えてしまった。
余談だが、真言宗の総本山、京都市にある東寺(教王護国寺)の国宝・西院御影堂(大師堂)の裏手、開祖・空海(諡号・弘法大師)が念持仏としたとされる国宝・不動明王像がある方の毘沙門堂の脇の塀際に根回り約12㍍のトウジの木がある。古木で中が空洞化して主幹が割れて今にも倒れそうな老木だ。東寺にちなんでゴロ合わせで植えられたとしたら、しゃれっ気のある気の利いた僧侶がいたのではないかとほくそ笑んだことがある。西院敷地内には都市部ではほとんど見られなくなったツクバネガシの古木もあり、根元に不動明王の石像が祀られている。東寺には諸仏諸菩薩など多くの国宝、重要文化財があるが、個人的には大都市の中心部にある西院のトウジとツクバネガシも重要文化財級だと思う。
 
 
パッチン漁
 パッチンとは漁具の呼称。魚貝を採捕する漁法のほとんどは県知事の許可を得ているが、パッチンは不許可漁法だった。太さ5ミリほどの鉄棒を25~30㌢四方の正方形にして、上部の握りの操作で開閉する仕組み。クルマエビを採捕する。刺し網や底引き網で捕ると、場合によってはヒゲが折れ、足がもがれるが、パッチンで採捕したクルマエビは傷が無く、高値で売れた。
マハゼの手掴み漁
 潮の干満差が大きな秋の夜漁。干潟には小さな凸凹が連なる砂漣(されん)が形成される。波の大きさや風の強さ、潮流の速さによって凸凹の間隔や形状、凸と凹の高低差が異なる。
 大潮の干満差は春が昼、秋では夜になる。9月下旬から10月の大潮の潮時が干潮ともなると春よりも潮が引いて、広大な干潟が現出する。干潟には砂漣の凸凹ができている。凹は深さ1、2㌢ほど。この凹にハゼがほとんど等間隔で向きこそさまざまに横たわっている。大きさは体長12~15㌢ほど。
 アセチレンガスのカンテラの明かりやバッテリーを電源にしたライトの灯でハゼを照らし出しても全く身動きしないまま。なんの警戒心もなく熟睡状態で寝ている。ハゼは成長して秋口から深場に移り、落ちハゼといわれているが、成長したハゼは干潟で堂々と寝ることを知った。なぜ、熟睡と分かるのかというと、手で魚体をつかんでも暴れないまま捕まえることができるからだ。
 ハゼを見つけては片手でハゼをつかみ、持ってきたザルに放り入れる。そこら中で寝れいるからつかみ放題、捕り放題。わずか1時間ほどで、たちまち大ザルの半分ぐらい捕れる。上げ潮までまだ時間的な余裕はあるが、荷が重くなるので大ザル半分ぐらいの漁獲で引き揚げる。
 捕ったハゼは塩水で魚体のヌルヌルした粘液を洗い流して、炭火のコンロで焦げないくらいにあぶる。焼きハゼは竹串に5、6匹刺すか、ゴザの上に1匹ずつ転がして数日間、風通しの良い場所で天日干しにして乾燥し保存した。脂が乗った状態で乾燥させた焼き干しハゼは、正月の甘露煮用、正月に食べる雑煮の出汁用に使った。現在も焼き干しハゼを作っているのは石狩川河口での生産者だけとなった。
 夜の干潟を歩くので、干潟の在りように熟知した人でないとできない。干潟に深場の澪や水路がある場合、深みにはまる危険性がある。
 食はその土地の風土の中で作られる。河川湖沼で漁をする人は捕った小鮒やアユなどを焼いて干し、甘露煮や出汁用に使う。そこにいるから捕って食に利用する。
かつて新潟県の阿賀野川流域の住民が川魚を捕って水銀中毒の症状を訴えた。新潟県の衛生部長はその住民の訴えに対して「魚を捕って食べる方が悪い」と発言した。川漁師や流域の人々が、自分たちで捕った魚を自分たちで食べることがどうして悪いのか。遠い祖先から累々と続けてきた食習慣の営為ではないのか。熊本県の水俣病でも同じようなことが言え、身近な海や河川湖沼で捕った魚貝を食べる。その原点が社会的に理解不足もあることでが水俣病の全面的に解決しないことにつながっている。
ハマグリの大脱走 
1965(昭和41)年夏=高3、ハマグリ養貝場のハマグリは一晩でいなくなった。逃げ出しの速いとに驚いた。64(昭和40)年夏が極端な冷夏だったのに比べ、少雨でむせ返るような暑さが続いた。6月11日、東京都が東京湾の魚介類から暫定基準を超えるPCBを検出したと発表。メチル水銀の汚染も明るみになった。この汚染魚騒ぎで折から赤潮、青潮も発生して、干潟には死んだアカエイがあちこちにあった。
 夏の暑い日の日中はほとんど海で遊んだ。場所は満潮時でもやや背が立つ干潟。歩くと足裏に丸っぽい物体の感触があった。手を伸ばして物体を取ると大きなハマグリだった。そこいら中がハマグリだった。潮の引いた干潟でどこがハマグリの養貝場なのか教えてくれなかったが、「ハマグリの養貝場には行くな」ときつく言われていた。李下に冠をかぶらずのことわざ通り、養貝場にいるとハマグリ泥棒と間違われることを心配したからだ。
大量の大ハマグリの存在を知り、「なんだ。ここか」と思った。もちろん、ハマグリを持ち帰ることはしなかった。次の日の同じ時間帯にこの場所に行6ひくと、ハマグリの姿も形もなかった。何と、一晩で姿を消してしまったのだ。ハマグリの大脱走。ハマグリも泳ぐのかとも思った。一体、どこに姿をくらましたのか。これ以来、ハマグリを見たことはなかった。
 このPCB・水銀汚染魚騒ぎで採捕した魚類は一切売れず、捕った魚はタルやザルに入れたものの捨てた。私は捨てないで持ち帰ったカレイ類やアイナメ、メバル、イシガニなどを食べた。「東京湾に育てられた身。PCBや水銀に体がむしばまれようが食べる」と言ってすべて食べた。夏の9月6日、全国の漁民有志は東京・九段会館に結集して「公害被害危機突破全国漁民総決起大会を開いた。
ウナギ秘話
 1966(昭和41)年夏は冷夏。翌42年は空梅雨で猛暑日が続き赤潮、青潮がひんぱんに発生した。PCB汚染魚の騒ぎが起き、すべての魚貝が市場で魚屋で買い取りを拒まれた。一切の魚介類が売れなくなった。当然、天然ウナギも買い取り拒否。養殖ウナギが堂々と市場に出回るきっかけとなった。
1973(昭和48)年夏、水銀汚染魚騒ぎが持ち上がった。捕った魚貝は売れず、食いっぱぐれた漁師の怒りが爆発した。千葉県庁に押し入って正面玄関で大ざるに入った魚類をぶちまけた。その前に市原市など湾岸コンビナートに工場排水口に土嚢を投げ込んでふさいだ。怒ったのは木更津方面の青年漁師たちだった。威力業務妨害の疑いで逮捕された。漁師らしい激しい怒りのぶつける堂々とした抗議だと思った。
アサリの秘話
 アサリの殻は保護色。砂泥地に生息するのは泥色を反映して黒みがかっている。白い殻はきれいな砂地。白い殻のブルーなど明るい色合いが混じるのはカキやアサリなどの貝殻が散乱している砂地での暮らし。東京湾のただ1カ所、このきらびやかな貝殻のアサリを採取できる場所があった。そこは航空自衛隊木更津基地の地先の干潟。
基地の沖合はかつて東京国際空港の建設候補地の1つとなった。木更津の上空には羽田空港に着陸する飛行機の空路になっており、飛行機を導く信号を発するボルタックがある。基地はヘリコプター基地でもある。陸上自衛隊習志野駐屯地にあるレンジャー部隊と連動して、首都防衛、特に皇居、霞が関、永田町など中枢部を守る特殊任務がある。テロで中枢部が襲われた場合、基地の大型ヘリが出動して、レンジャー部隊と協働で要人を救出する任務があるという。この重要任務への支障を考慮して、国際空港は成田・三里塚に建設されることになった。この基地のあるおかげでかつて水がきれいだったころの東京湾のアサリが保全されて今にある。小櫃川の河口域に広がる盤洲干潟が埋立の難から免れたのも同じ理由からだ。
 東京湾の底質と似ているのは渥美半島の渥美湾。東京湾産のアサリの稚貝が少ない時、漁協は他所から稚貝を求めて東京湾の干潟にばらまく。渥美半島のアサリは底質が似ているので育つが、有明海産のアサリは、すぐに死滅する。泥深い有明海で生まれたアサリは砂質の底地に潜る力が弱く、潜れないまま直射日光を浴びて死滅するというのが漁師の見方。アサリもDNAに違いがあることを知った。
入浜権
 1973(昭和48)年、兵庫県高砂市の公害を告発する住民運動から入浜権が提唱された。住民が海浜や海岸に自由に立ち入り、魚介類の採取や自然の恩恵を享受できる権利がるという主張だ。
農山村の入会権と同じように、周辺の近隣住民が高価なマツタケなどのキノコ類を除いて、薪拾いや柴刈り程度なら、入会権者たちは見て見ぬふりをして容認してきた。戦後、石炭やコークス、灯油が出回るようになった燃料革命が起きるまで、かまどや風呂釜で焚く薪取りは日常生活の中でごく普通に行われていた。
 干潟でも同じだった。終戦後間もなく、出征した父や夫を戦地などで亡くした家々が地域内には少なくても数軒はあった。日々の糧を得る大黒柱を失った手に職のない母や妻は、日銭や糧食を得るのに苦労した。子育ても大変だった。父や夫を亡くした母子家庭の子供がわが家に遊びに来た際、母親は昼夜の飯時にいたら、わが子と同じように平等に食膳と整えて食べさせた。こうした家庭は地域社会の中で見守られた。
 こうした母子家庭の女性は、日々の糧食を求めて干潟に出て、アサリ掘りをした。漁協の組合員が漁をする場所以外のアサリが少ない岸寄りの場所で干潟をかいた。組合員以外は魚貝の採捕はできないことになっていたが、漁師たちはとがめることなく見過ごした。自家消費する家もあったが、貝を剥いてアサリを細い櫛に刺した目刺しを作って売り物にした。それでも見過ごした。
冬場は太ももまである「腿長」と呼ばれる長靴を履いて浜辺に立ち、風波でちぎれた海苔の葉の端切れを小さな金網で拾い集めた。漁師たちも干潟で海苔の桁網で拾ったが、「たかが知れている」と言ってみて見ぬふりをして、これらの女性をとがめることはしなかった。まだ、生きるのに苦労した時代だった。
アサリ掘りやノリ拾いだけでなく、漁師たちが手を付けないウゴ(ウゴノリ)拾いや砂泥地をスコップで掘り返し、そこの生息するゴカイ捕りもした。ウゴは酢の物用に魚屋に、ゴカイは釣りエサ屋に売って現金化した。
干潟では子どもこうした女性たちと同じ仕草で遊んだ。筆を使って穴ジャコを取ったりした。子供たちのいたずらの方があくどかった。澪筋に仕掛けられた竹筒のポッポや柴漬けを所有者がいることを知りながら揚げて、ウナギなどを捕まえた。所有者はどこそこの子供と知りながら、「やられた」と言いながら子供たちを叱ることはしなかった。
埋立地に工場が立地し、工場の前浜には立ち入りができなくなった。釣り人さえ工場の護岸にはいることができなくなった。入浜権が提唱されるようになって、入浜権とはこういうことかと思った。浜、干潟、海は漁民の操業の場だが、それほど多くを漁獲しなければ、だれでも干潟や浅海を利用できる。昔ながらの浜辺集落の慣行が入浜権だと勝手に理解した。
くさい魚
 子どもころから魚なら何でも口にした。体長20㌢程度のセイゴの煮魚で何度か油くさいのを食べたことがあった。
 漁師はボラやフッコ、コノシロなど幼魚のころ河口域で育った魚は食べなかった。浮遊物を口にいれる魚は成長して沖合に生息していても、上げ潮時にプランクトンを追って潮が満ちてくる干潟に入る。ここで捕れた魚を魚屋に売っても、「口にいれると嫌な臭いがする」と言って、自分で食べることはしなかった。「嫌な臭い」というのは油臭さだった。60年代に入ってからである。もう、このころから汚染魚がいたのだ。
*次から個別編に入ります。福浦一照

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