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ケチの精神と男子の心構え

定年後ケチになるのは自衛だが


定年後は、これまでの収入が激減するので、
どうしても節約をしたくなる。
ただ、節約をするとケチと言われてしまう。
男子なら節約をしているつもりが、ケチと言われてしまうのに納得できないのではないだろうか。
特に、女性は、ケチな男性を嫌う傾向にあるようだ。
だから、本当はケチになりたいのだが、女性に嫌われることを恐れてケチになれない男性が多いようだ。

自分自身が自分に対してお金を惜しむのは節約

一人で外出する時、必ず水筒を持参するのは、節約という。
一人で休憩の時、スターバックスやマックに入らないのも節約である。
ここで、わざわざ「一人」と強調したのは、二人の時と状況が違うからである。
例えば婚活やデートで、節約をしたら、相手に「ケチ」と非難されるのがオチである。
「わ!素敵」
と、間違えても言われることはない。
節約というのは、周囲の同意が前提である。
自分であれば、当然同意しているので自分をケチだと思ったりしないはず。
この同意を得るのが、大変である。
気候変動に対して、二酸化炭素排出量を規制しようと各国の代表が集まっても、なかなか同意は難しい。
良いことだって、同意は簡単ではない。
yahooのコメントも、全員が賛成は奇跡に近い。
世の中は、反対することに意義があると思っている人が必ずいる。
人間性善説は良いけれど、、実際は違う。
性悪説を地で行っているねじ曲がった人も必ずいるのだ。
だから「節約」に同意をしない周囲の人は「節約」のことを「ケチ」という。

節約はほどほどだが、ケチは限りがない

節約は、同意の上に成り立っている経済活動だから、節約自体が暴走することはない。
ところが、ケチは、周囲の同意を必要としないので、暴走しやすい。
ケチの本質は、身勝手で自己中心的なのかもしれない。
それが相手を傷つけたりするのかもしれない。
他人の気持ちを寄せ付けないのが「ケチ」の本質かもしれない。
「同意」の場合なら、相手に、
「どうですか、ここは節約しませんか?」
と、考えを共有したりできる。

結婚指輪を購入するときのことを想像してみよう

節約の場合、100万円のダイヤの指輪の時に、
「花子さん、どうでしょうか、結婚して子供が生まれたら、結構出費があると思いますから、この50万円の方にしたら。」
こういう体なんなら、節約が全面に出ているので、話し合いは良い結果につながると思う。
しかし、ケチの場合は、
「花子さん、もったいないから、1000円のガラス指輪にしませんか。」
と言って、破局を迎えるのである。
食べ物のほうが分かりやすいので、バナナで考えてみよう。
毎週朝に一人一本ずつバナナを食べていたが、
来週からは、半分ずつにすると言われても、節約だと分かる。
しかし、厚ささ1センチメートルづつと言われると「ケチ」だと思われる。
ケチは、相手に極端な節約と思わせている。
ケチは極端に走りやすいから、相手も極端に激高しやすいと言える。

ケチは、周囲に害を及ぼす時、相手から発する言葉

ケチの本質は、相手次第かもしれない。
些細なことでも「ケチ」と思わない人もいれば、思う人もいる。
また体質的にケチに敏感に反応する人もいれば、無反応な人もいる。
ある意味、周囲のアレルギー反応とでも言えるのではないか。
だから周囲に「害」を及ぼすようなケチ行動は、絶対慎みたい。
相手に分からないようにケチな生活を続けるのは問題はない。
隠していたケチな行動がバレた時、ケチという言葉が発せられる、
そう考えたほうが良い。
要するに期待を裏切られた時、ケチの言葉は威力を発揮すると考えられる。
だから、普段から、相手の気持ちを裏切らない程度のケチを実践したほうが無難だ。

ケチは自虐ネタである

ケチは自虐ネタだから、自分では楽しめるが、
他人には不快である。
ケチを自慢するのは勝手だが、誰もがケチをする人に好感を持ているとは限らない。
ケチ活動に快感を感じる人もいれば、反対に無駄遣いに生きがいを感じる人もいる。
人それぞれだから、自慢をすると忌み嫌われるのは間違いがない。
ケチを自慢したいなら、ケチ活動はやめたほうが良い。
ケチはあくまでも自虐ネタだと自覚しよう。

スマートに節約をする

ケチの精神は、非難されるべきことではない。
しかし、そのケチな精神は、他人にに押し売りしてはならない。
ケチという言葉が、忌み嫌われるようになったのは、その精神をむりやり周囲に浸透させたからに違いない。
いくら良いことでも、押し売りは嫌われる。
ケチの精神を復権するには、スマートなケチの活動が必要なのだ。
特に、老人はスマートな生き方が出来ないから、ケチを全面に出して失敗しやすい。
さりげないケチ生活を送りたい。

ケチな人間は無駄をなくそうとしているだけ

食べ物をケチるのは、食品ロスを無くしたいだけ。
意義は良くても、その伝え方に失敗するとケチの烙印を押される。
世の中全体が、ケチの精神で成り立っていれば、省エネの世界の実現は夢ではない。
しかし、現実には浪費家のほうが絶対的に多いのは確か。
浪費家は悪く言われないが、ケチは悪く言われるのは、社会的不公平である。
こうなったら、広辞苑の「ケチ」の項目内容を変更するしかないか。
ケチ 「ケチとは人類を救う究極のエコサイクルリストのことである。
時々誤解されて、ベニスの商人を指したりするが、それは間違いである。」
ケチの精神は決して悪くはないのに、本当に残念である。

ケチの満塁逆転ホームラン

「ケチ」のことをまとめてみたが、やっぱり人様にケチとは言われたくない。
実際「ケチ」と言われてみると、心にぐさっと刺さる言葉だ。
例えば、異性とと喧嘩別れする時、
「あんたみたいなケチ大嫌い!」
と言われたら結構ショックだろう。
「あんたみたいな短足大嫌い!」
と、言われたほうがマシだ。
それでは、ケチな人間は救われないのだろうか。
そこで、ケチの満塁逆転ホームランを想像してみた。
非難のケチ人生を送っても、ためた10億円を、気前よく遺産として残せば、
その時点でケチの烙印は消滅する。
ただ死んでからでは、よく言われても何もメリットはない。
ケチはやっぱり辛いな。

旗じいの話を最後まで聞いてくれてありがとう。
ケチの精神は、決して批判されるほど悪いものではない。
世界全体が一斉にケチに徹して貧しい国を支援したら、世界の貧しい人々救えるかもしれない。
でも、ケチより、気前の良いほうがイメージが良い。
もしかすると、貧乏人はケチになるしかなく、金持ちはケチになる必要がないだけなのかもしれない。

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