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お金で買えないもののほうが多いと知ること

お金で買えないもののほうが多い


会社勤めの現役の時、お金で色々なものを購入してきた。
だから、退職後の年金生活になっても、お金があれば何でも購入できると考えがちだ。
給料が二倍になれば、いい生活ができると思い込んでいたと思う。
年金生活になっても、その感覚はそのまま。
年季が二倍になれば、幸せ度も二倍になりそうに見える。
これは、日頃からお金を基準にして物事を考えているからだろう。
「お金がなければいい暮らしはできない。」
「お金がなければ、何も出来ない。」
こうした発想がまかり通っている。

老後にはコペルニクス的転換が必要だ

老後の年金生活の所得は、決まっている。
どう努力をしても、年金の額は決まっているのだ。
このことについて、いくら大声で「多い」「少ない」を論じても意味はない。
あるがままの年金受給額で「いかにくらすべき」かを工夫したほうが良い。
贅沢ができないという発想ではなく贅沢は必要がないと考えるべき。
現役の時、ゴルフをしていたとしよう。
退職後もゴルフに行きたいが、お金に余裕がない。
その時、どう考えるかだ。
なくて困ることとなくても困らないことがある。
贅沢なのかどうなのかではなく、贅沢が必要かどうかを考えたほうが良いのだ。
コペルニクス的転換とは、ものの見方や考え方を変えるということ。
今までとは違う世界で生きるには、今までとは違ったものの見方と考え方を変える必要がある。

生き方を変更するのは車の運転と同じだ

車の教習を受けてた時、教官から、
「ブレーキを踏むのは難しい」
と、教わった。
生きることは、車の運転と同じだ。
定年を迎え、その後の年金生活に突入するのに、現役と同じ速度で運転したがる。
現役の頃の道路は広い高速道路だ、でも退職後の道は隘路で曲がりくねっている。
運転をする場所が違うのだから、当然運転方法も変わって当然。
生き方を変えることは、順応なのだ。

幸福の目的が違って当然

若い頃は、欲望が強い。
あれもこれも、すべてを手に入れたくなる。
不可能なことにも挑戦をしてみたくなる。
それは若いから、当然とみなされる。
しかし、年金生活者が、若い人と同じような欲望に引きずられているとしたら、
それは、長い人生を生きてきた人のやるべきことではないだろう。
若い頃は生きるためにすべてをかける、だが、老人は、いつか迎える死を自覚すべきだ。
それは、生きてきた溜まったゴミの整理整頓をして、旅立つ準備をすることだ。
消費の生活から、整理整頓、廃棄の生活への大転換。

何を残すために人は生きるのか

難しいことではない。
人は何を残してこの世にさようならをするのか。
不潔なゴミ屋敷や、片付けられない廃屋、腐敗した肉体を残していくのか。
生活が安定し心も安定しなければ、清潔な老後は過ごせない。
肉体を健康に保ち健康な生活を送れば、人に頼らず自立をして最後まで過ごせる。
私達が迎える最後の死は、老後の最終ゴールなのだ。
その出発点が、退職後の年金生活から始まる。
「まだ良い、まだ大丈夫。」
そうやって、先送りをすればするほど、ずるずると現役の生活環境は続く。
70代は、長生きができるかどうかの別れ際と言う。
70歳までに、やるべきことをやって準備を終えたいものだ。

旗じいの話を、最ごまで聞いてくれてありがとう。
最近、ネットポルノ依存症になる老人が多いと、ニュース記事で読んだ。
老後になっても依存症になってしまうのは、なんとも悲しい。
老後の年金ぐらしになって、だらだら生きていると、生きる目的を見失ってしまうのではないかと思った。
人間は、最後まで幸せになるために生まれてきたのだと、自覚してほしい。

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