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自分が適応障害になるなんて思わなかった③

「休職をした」心配してくれた親友に伝えたら、「外に出て気分転換しよう」と言ってくれ、彼女は県外に住んでいるのに、わざわざ東京に来てくれた。

休職する前の私は、自分が嫌で仕方なかったのに、彼女といると自分が自分らしくいられたし、仕事について彼女から聞いてくることはなかった。居心地がよかった。

家族も知っている親友だったので、「彼女と遊んだら実家に帰ってきなさい。待ってるよ。」そう言われたので、部屋の掃除や、帰省の準備をして実家に帰った。

私の実家は、田舎でのどかな所だった。田舎なので近所の目が正直怖かったが・・。

人の目をもともと気にするほうだったので、帰ってから最初はずっと家にこもった。身体もまともに動かせない日が続いたし、1日パジャマで過ごすことが1.2ヶ月は続いた。大好きな本も読めなかった。また、もともと重い生理痛、PMSがあったが、それも酷くなった。薬を飲んでものたうちまわった。

それから、嫌な感情が芽生え始めた。3者面談のときに、言われた言葉があった。課長は、私の先輩から話を聞いていたらしく、「あの子は仕事を覚えるのが遅くて不満がある。私はただ、仕事ができない彼女を叱っていただけ。」そう言っていたようだ。今考えると、部下が精神的に追い詰められている状況で言える課長の心理がとても謎・・。

そんな言葉がフラッシュバックする日々や、先輩や上司の名前、顔が突然浮かんできて、「どうして私が適応障害になったのに、先輩は普通に仕事をしているのだろう。苦しい。切ない。でも仕事も手につかない自分が情けない。辛い。しんどい。もう無理。」そんな感情で押しつぶされそうになる日々が続いた。

押しつぶされそうになっているのに、泣きたいのに涙が全く出てこなくて、虚無だと思う日々は続いた。「どん底ってこういうことなのかな」ふと思ったことがあった。

そんな日々のなかの癒しが、実家で飼っている犬だった。私が落ち込んでいるときは、心配そうにそっと影から覗いていたり、寝そべっていたら横にくっついてきてくれた。犬の温かさに落ち着いた。父も何も言わずただ「おかえり」そう言って仕事や、体調のことは一切聞かなかった。母は、私が部屋で沈んでいるときに、親の勘なのか、部屋に来て話を聞いてくれた。

友人とも連絡を取り、話を聞いてくれた。他に気を許せる友人がいたから、その子にも話した。「休むときは休んでいいんだよ」そう言ってくれた。

気分の波はたくさんあったけど、周りのおかげで少しずつ自分がどんな感じだったのか思い出せるようになってきた。心から笑うことも増えていった。


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