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音楽は水のように 【ショートストーリー】

蛇口をひねると音楽が出てきた。
踊るように流れる音符たち。両手に溜めて、顔を洗った。
楽しい音色、悲しい音色、嬉しい音色、怒った音色。
何度も何度も顔に浴びせると、新しい歌が聞こえてきた。すばらしい朝!
こんな日に家にこもってるなんてもったいない。
着替えもそこそこに、私は家を飛び出した。

太陽の日差しが空気中の音楽を吸って、私の体いっぱいに照らされる。
車の音、電車の音、信号の音、人の足音、誰かの咳払い、店の呼び込み。
町中のすべてが音楽とまじりあって素敵なリズムを奏でている。
足も軽やか。思わずステップを踏みたくなる。

不意に声をかけられた。振り返ると見知った顔だった。
「あの、昨日は…」
彼の言葉は四拍子。
何かを言いかけた四拍子君は、そのまま下を向いてしまった。
口をもごもごとして言葉を慎重に選んでいる様子だった。
軽やかだった音楽が切ないメロディに切り替わる。
続きを聞いてはいけない。
私は走った。後ろから四拍子君の声。
構わず走り続けるとアップテンポな音楽が戻ってきた。

息切れするほど走ったあと、顔に音符が滴るのを感じた。
しまった。ハンカチを忘れた。
仕方なく手で拭う。鬱陶しいような爽やかなような。
よくわかないリズムだった。
周りから風と木々のさざめきが聞こえる。
顔を上げると、たまに散歩に来ていた公園だった。
普段は物静かなのに今日はとてもにぎやかだ。
木のひとつひとつ、葉っぱの隅々にまで音楽が流れているのがわかる。
どれひとつ同じ音色はなく、それぞれの葉が、枝が、木洩れ日が。
オリジナルの音楽を創っている。
ぼうっとしながら聴き入っていると、ベンチに座ってる人と目が合った。
知ってはいるけど親しいわけでもない人。手には本。読書をしてたようだ。
彼も同じなんだろう。
目が合ったことに気づいたが、何か言うわけでもない。
軽く会釈をしてきた。私もペコリと会釈。
記憶をたどると、彼の声は和音だったことを思い出した。
視線を戻したら和音君はもう読書に戻っていた。
彼からは不思議な音楽が聞こえる。
気になって足を向けた瞬間、公園の外から大きな音楽が流れ込んできた。
そうだった。この公園の向こうには――
私はまた走り出した。

砂を踏む音すら掻き消える。あふれんばかりの波打つ音符。
目の前に広がるのは、音楽の海。
まさに圧巻。優美で、壮大で、それでいてなめらかで、やさしく。
波立つたびにあの曲が、重なる波にこの曲が。
音もリズムも視界も匂いも。
もう、すべてが音楽だ。

燃えるような音色が感情を震わす。
足元に触れるやわらかな音色が私を誘う。
音楽のうねりに向かって足を進めた。
膝まで浸ると、心地よいリズムが私に流れ込んでくるのを感じた。
踏み込むたびに流れが深まる。音楽が私の一部になってゆく。
肩まで入ったとき、唐突に気づいた。
逆なんだ。
私は大きく口をあけて、顔を音楽に突っ込んだ。
口いっぱいで音楽を味わう。ゴクンと飲み込むと体が溶けだした。
感覚が心地よく手放されていく。
そう。私が音楽の一部だったんだ。
喉を通すことすらわずらわしい。頭までまるごと音楽に沈めた。
もとから一体。私は音楽。音楽は私。
音の渦に意識が吸い込まれていった。


声が聞こえる。
不思議な音。どこかで聞いたような声だった。
最初はうっすら。だんだん近づいて。
そしてハッキリと聞こえた。
「おい、しっかりしろ!」
暗闇から引き戻されて、光を感じた。
ゆっくりと目をあける。『和音君』だった。
ゴボッと咳がでた。肺から水が吐き出される。
「ああ!よかった・・」
『和音君』は私の体から手を離し、ふうっと息をついた。
びしょ濡れの服から雫が滴っている。

音楽はもう聴こえない。
しびれる手をゆっくり自分の胸にあてた。
頭のもやが晴れるにつれて
昨日の『四拍子君』とのやり取りが思い出された。
胸が痛い。ギュッと手に力を込めて、今に意識を向けた。
海風は止んでいる。静かな波音だけが響いている。
体の感覚がゆるやかに戻ってくるのを感じる。
血が巡り、自分の輪郭がなぞられる。

ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が手に伝わる。
なんて力強いんだろう。
その音はとても頼もしく、そして愛おしかった。

#2000字のドラマ

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