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“原爆”と向き合うことから逃げてきた私の背中を押してくれた人たちのこと

『原爆が落ちた瞬間、何を思いましたか?』
『戦時中、恋はしていましたか?』
『生きるのが嫌になった時、梶本さんならどうしますか?』

被爆者が高齢化する今、“あの日”の記憶を未来に伝えるために…
最新の人工知能を使った「応答装置」を開発しました。

証言してくれた梶本淑子さんが広島で 被爆したのは14歳の時。
爆心地から2.3km離れた工場で作業をしていました。
窓に真っ青な光が見え「爆弾だ」と思った瞬間、建物の下敷きになり気絶。
足と腕が裂ける大けがを負いながらも、なんとか生き延びました。

上段真ん中が中学生のころの梶本さん

家族で行ったお花見。初恋のこと。
女学校でスカートを短くして先生に怒られたこと…
梶本さんはどんな話をする時よりも、本当に楽しそうに笑ってお話しをされます。
私の青春時代と変わらない日常があったんだ—。
あの日の苦しみは、自分たちの「いま」と"地続き"であり、その苦しみを「自分ごと」として感じることができたら…
「原爆」や「戦争」が遠い歴史の中の話ではなくなるかもしれない。

あの日の苦しみを自分ごととして受け止められる応答装置にしたい――。
私は広島局の『被爆体験継承プロジェクト』の担当ディレクターになりました。

原爆・戦争から逃げていた私

『原爆』――体験者の声を聞きたい、しっかり知りたい、そう思いながら、実は”ディレクター”としてはずっと避けてきたテーマでした。
子どもの頃、沖縄を旅したことがきっかけで戦争に興味を持った私。
学生時代は各地の戦跡を巡り、おじいやおばあに会ってお話を聞きました。
でも、”知りたいと思って“と 近づくたび、“知り切れない”という圧倒的な現実を突きつけられたのです。
あのときの痛み、苦しみ…私などに到底わかるわけがない。
わかった気になって番組を作りたくない。
だから、避けて…いや、逃げてきました。
そんな私が、2021年の秋、広島放送局に赴任。
原爆、そして被爆者に真正面から向き合うことになりました。

被爆体験継承プロジェクト始動

いま、被爆者の平均年齢は84歳を超えています。
あの日の記憶や証言を後世に残したい、それも、若者たちに興味を持ってもらえる新しい形で。
そんな思いで立ち上がったのが、『被爆体験継承プロジェクト』です。
4Kカメラで撮影した膨大な被爆証言を最新の人工知能のデータベースに学習させ、質問者の問いかけに最適な回答を選び出す仕組み。
まるで被爆者と“対話”しているような体験ができる応答装置をつくる、という大きな挑戦でした。

すでにアメリカでは、ホロコーストの生存者 などでの先行事例があり世界的に注目を集めていました。
――ヒロシマの被爆証言も同じように残すことができたら、戦争を知らない若い世代にも興味を持ってもらえるかもしれない、素直にそう感じました。

今まで残されてきた体験記や、証言ビデオとのいちばんの違いは 、証言者と質問者の“対話の体験”を作り出すこと。
一方的に、受動的に証言を聞くだけでなく、梶本さんとの”対話”を通して質問者自ら考え、問いかけたくなる、そんな能動的な体験を目指しました。

こちらが興味を持って聞いたことに対して適切な回答が返ってくる—。
そのために重要になるのが、「膨大な被爆証言を収録すること」でした。

今回の装置は、文章などを自動的に作り出す生成AIと違って、梶本さんの証言映像を合成して作るわけではありません。質問に合わせて、事前に撮影した映像を選択してそのまま再生します。そのため、まず被爆者に「たくさんの質問」を投げかけないといけないのです。

応答装置の完成・公開予定は翌年の2022年8 月。
そうすると証言の収録は遅くても半年後の3 月までに行わなければ開発が間に合わないという状況でした。
がく然としました。

…原爆について教科書レベルの知識しかない私。
原爆や戦争に真正面から向き合ってこなかった私が、被爆者に何をどう聞けば良いのか…。
不勉強の私が質問するのは失礼ではないのか?という思いが募り、不安でいっぱいになりました。

梶本淑子さん との出会い

今回、プロジェクトへの協力をお願いした被爆者は、梶本淑子さん 、92歳。
広島の被爆体験証言者の中でも最高齢に近く、あの日の記憶を鮮明に語ることのできる数少ない被爆者のおひとりです。

中学3年生だった14歳のときに被爆。
原爆で父親を亡くし、16歳から3人の弟をひとりで育て上げたという女性でした。病気の夫を看取った70歳から、20年以上にわたって証言し続けてきました。

プロジェクトが本格的に始動した2021年11月というと、コロナ真っただ中。
高齢の梶本さんには直接会うことができず、まずは電話での交渉が続いていました。
「5日間にわたってインタビューする。」 
「人工知能で被爆証言を残す。」
そんなことを突然言われて、梶本さんは不安だらけだったに違いありません。 

――「オバケができるんじゃろ、嫌やけん。」

こう思うのももっともです。
私自身、どんなものができるのか…とても不安だったのだから。

梶本さんに会えない日々、私は、梶本さんの証言ビデオを繰り返し見直したり、梶本さんに関する過去の新聞記事を調べたり…
とにかく、梶本さんの被爆体験を知ろうと心がけました。
さらに、原爆の実相や他の方の被爆体験ももっと知りたいと思い、図書館 や資料館にある証言集をひたすら読み込みました。
同じ原爆でも、被爆の場所や状況、年齢などによってその体験は大きく違います。
多くの体験を知らないと、梶本さんの原爆にしっかり向き合えないと思ったからです。

でも…

『みな 目も腸も飛び出していた。』
『死体を踏んでも何も感じなかった。』
『地獄の町をさまよい、人間の心を失っていた。』
 

壮絶な体験、慟哭どうこくの思いに触れるたび、私にはわかり得ないという思いは、さらに強くなりました。

生半可なまはんかな気持ちで向き合うべきではない…
そんな思いが募っていきました。

ヒロシマのこと、原爆のこと、勉強したいなら何でも教えてあげる

そんな中で私の背中を押してくれたひとがもうひとりいます。
被爆者の小倉桂子さん(85)です。
「広島にケイコあり」と、世界に知られる小倉さんは、40歳を過ぎた頃から英語を本格的に学び直し、英語で被爆体験を伝えてきました。
プロジェクトにはアドバイザーとして参加し、どんな装置を目指すべきか意見をくださいました。
そんな小倉さんが私に教えてくれたことは、立ちすくむほどの「恐怖」、いまなお癒えぬ傷…
そして、辛い日々の中にもあった「幸せ」です。

「被爆者と言われるけれど、小さいころは歌を歌ったり、キレイなワンピースを着たり、戦争中も苦しいことだけじゃなかった。
幸せなこともあったのよ。」

自分たちは決して辛い、苦しいだけではなかった—。
その日々の中にも楽しい瞬間があり、家族や友人、愛する人がいた。
その大切な「何か」が一瞬にして奪われること、それが「原爆」なのだと…。

私も想像しました。いま、大切な家族が奪われたら? 何気ない日常がなくなったら? 好きな人がいなくなったら? そして、被爆者をどこかすごく特別視していた自分に気づいたのです。みなさん、被爆者の前にやはり「ひとりのひと」。あの日、きっと誰もが生きたかった。生き残ったひとたちも、「被爆者であること」を背負わされたのです 。

もしかしたら、自分にも理解できることがあるかもしれない。
小倉さんの言葉をきっかけに、少しずつ原爆と、梶本さんに向き合う覚悟ができました。

被爆者の人生すべてを伝えたい

梶本さんに直接お目にかかれたのは、プロジェクトの始動から1か月後――。
どんな方なんだろう…。
何を話せばいいんだろう…。
不安な私の前に、ゆっくり杖をついて現れた梶本さん。
初対面の印象は、「なんてかわいらしいひとなんだろう!」。 
バラの模様の黒のコートがよく似合う、優しく笑うひとでした。

――「そのコートはご自分で選んだんですか?」
――「娘に買うてもろたんよ。きれいにしよったほうがいいでしょう。」

いま、梶本さんが私の前で笑っている。
生きてきた90年の人生を想像すると、正直、”奇跡”だと思いました。
「被爆者」の前に、この人は「梶本淑子さん」だ。
直感的にそう思いました。
一方で、“被爆者”として壮絶な経験をしながら、
“いま、なぜそんなに穏やかに優しく笑っていられるのか? ”
梶本さんが歩んできた人生のすべてを知りたいと強く思いました。

私は梶本さんに思いをそのまま伝えました。

――「私は、梶本さんが何を思って、あの日からどう生きてきたのか? 
そのすべてを知りたいです。被爆証言ももちろんですが、
梶本さんが生きてきた人生をまるごと残したいです。」

梶本さんは広島市内で1人暮らし。
ご自宅で90年の人生を聞かせてくれました。
お部屋には訪ねてくる人をイメージして生けるというお花が飾られていました。
私が訪れたときは、オレンジのガーベラ。
梶本さんのお花好きは、お母さん譲り。
そして、どんなにしんどくても気遣いを忘れない。
そんな人です。

今回のプロジェクトでは、そんな梶本さんの人生をまるごと残したい。
いまを生きるひとたちにも、そして、未来を生きる子どもたちにも、こんなすてきな人がいたことを知ってほしい。
こんなにもかわいらしく優しいひとから、日常を奪い、大切なものを奪い、言葉にできない苦しみを与える、それが「原爆」なのだということをしっかり伝えたい。
そして、まるでそこに梶本さんがいて話しかけてくれているような装置が作れたら、戦争を知らない、たとえ興味がないというひとたちも何か感じてくれるのではないか?ということを伝え続けました。

—「そんなんじゃったら残したいよね。意味があるよね。」(梶本さん)

—「母の人生がそのまま残るなら素敵よね。
お母さんの証言が未来にずっと残るのもいいよね。」 (娘さん)

何度か足を運ぶうち、梶本さん、そして、ご家族もプロジェクトへの協力を承諾してくれました 。
梶本さんは言ってくれました。

―― もうここまできて、話せんことなんかないけん、なんでも聞いてくれたらええよ。
生きているうちに自分の言葉で残したい。
最後の仕事と思うとる。

その覚悟を前に、私も覚悟が決まりました。
去年3月に行われた証言収録。
普段のインタビューとは大きく違い、応答装置を作るための収録です。
背景を合成するために用意されたのはグリーンバックの証言台。
5日間、同じ服装、同じ髪型、メイク、ほぼ同じ姿勢で収録が行われました。

梶本さんは数年前に大きな胃がんの手術を受けました。
食事の内容や量は人一倍気を付けています。

「この仕事中には倒れられん—」  

梶本さんはいつも以上に食事に気を付け、体調を整えて証言収録に臨んでくれました。そして、5日間にわたり休憩をとりながら、質問のすべてに真摯に丁寧にこたえ、言葉を紡いでくれたのです。
その姿に胸がいっぱいになりました。ときに互いが涙を流すほどの真剣勝負。梶本さんとの一問一答が始まりました。

ふだんの被爆証言は、8月6日のできごとが中心。
しかし、今回は戦中、戦後、現在のことまで多岐にわたります。
取材中、梶本さんが語るのを悩んでいたのは、「戦後」のこと。

「原爆が怖かった、戦争が怖かったではない。何より戦後が苦しかった—。」

教師になるという夢を諦め、16歳で3人の弟の母親代わりになった梶本さん。食べる物も着る物もなく、弟たちにもひもじい思いをさせたと今も後悔が残るといいます。
「辛い戦後は思い出したくもないんよ、話してみじめな思いをしたくないんよ。」と。
しかし、躊躇ちゅうちょしていた「戦後の辛さ」もすべてさらけ出し、残してくれました。

それは、“あの苦しみを子どもたちに二度と味わって欲しくない ”
”その思いが誰かひとりにでも伝わってほしい“という強いおもいからでした。

今回、残したかったのは被爆証言のみならず、梶本さんというひとりの女性の“人生そのもの”。
「戦後の惨めさ」「被爆者として受けた差別」。実際にお会いすると聞くことを躊躇しそうな質問から、「好きな芸能人」まで、梶本さんの人生にまつわるあらゆる質問が投げかけられています。

さらに、今を生きる広島・長崎の高校生にも質問を一緒に考えてもらいました。未来の若者たちにも届ける応答装置を目指すために、若者たちの視点も大事にしたいと思ったからです。

『結婚相手は被爆者に理解がありましたか?』
『いま、平和のために私たちができることはなんですか?』
『生きているのが辛いです。どうしたらいいですか?』  

彼ら彼女らの思いもあわせて、質問の数は全部で900を超えました。

20代前半で結婚し2人の娘たちを必死に育ててきた梶本さん。夫とお姑さんの介護にも奔走し、90年の人生、自分のことを考えるひまなどなかったわと笑います。
自分のことは二の次で、いつもひとを想い、気遣う人。
私なら、原爆の不条理に、泣き喚き、生きることを投げ出していたかもしれないとさえ思うのです。

だからこそ…900におよぶ質問の最後、私は梶本さんにどうしても聞いてみたいことがありました。

――「今まで生きてきた中で、一番幸せだったことは何ですか?」

その答えは――。

「今ですね。今だわ。私、今、本当に幸せだと思います。
あの頃のように、生活をどうしようかという心配もないし、コロナのときにはね本当に寂しかったですけど、証言がぼちぼちとでもでき、生徒さんのキラキラした目を見たり、うなずいてくれたり、泣いてくれたり。
本当に私も生きてる、自分で「生きてるなー」という実感があったり。
「証言ができた」といううれしさがあったり。
本当に今が幸せです。」

“いま先生みたいなことができとるでしょう、うれしくてたまらんよ”

あのとき諦めた先生になるという夢。梶本さんは、いま、別の形で叶えられたんだ—。
たくさんの子どもたちに自分の思いや体験を伝え届ける。子どもたちのキラキラした瞳に、梶本さんは大きな希望を見ているのだと思います。

梶本さんに初めて会ったときに感じた、“いま、なぜそんなに穏やかに優しく笑っていられるのか?”
その答えが詰まっているような気がしました。

あの地獄のような日々や、戦後の苦しさを経験しての「今」。
だからこそ、穏やかな日常に感謝して「生きている」と実感できる。
いや、そう生きたいと願うからこそ、日々が穏やかに過ごせるのかもしれない。

梶本さんのようにはなれないけれど、私も、今に生きていることに深く感謝するようになりました。

半年遅れで装置公開

応答装置が完成したのは今年1月。まずは、 広島・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で一週間、限定公開しました。
小学生から90代まで50人が、梶本さんとの”対話”を体験してくれました。
“梶本さんがそこにいるみたい”
“もっと話してみたい” 
そんなうれしい声も聞くことができました。

「対話」は会話だけにとどまりません。
「子どもの頃、流行はやっていた歌を歌ってもらえますか?」
と尋ねると、戦時中の流行りの歌を歌ってくれる仕掛けも作りました。
照れる梶本さんの姿に、会場が優しい笑いに包まれることも。

まっすぐな瞳で装置を体験してくれる学生たち。
そして、何より…装置と真剣に対話する学生たちの姿に涙する梶本さんを見たとき、私は、やっと、このプロジェクトを担当して良かったと胸をなで下ろしました。

最新のAIを活用した装置の開発は失敗の連続。公開は半年延期せざるをえませんでした。
諦めそうになるたび、私は梶本さんのことを思い浮かべました。

「生きているうちに自分の姿を残したい。」
「これが最後の仕事だと思っている。」

そんな梶本さんの思いを知ってしまったら、逃げることなどできませんでした。

――「この1年、一緒に歩いてきてくれて、ありがとう。」

梶本さんがくれた言葉です。

私は梶本さんに対し、「被爆者」というよりも、やっぱり“ひとりのひと”だと思って向き合ってきた部分が大きくあります。梶本さんを知りたい、残したい、その一心でした。だからこそ、聞けたことがあったかもしれない。

…でも、私はこうも思います。

梶本さんは、やはり「被爆者」です。
梶本さん自身が「被爆者であること」を理解し、きょうも、この世から核兵器をなくしたいと証言に立ち続けているから。
梶本さんが訴え続けた20年。
それでも今なお世界は核の脅威にさらされ、苦しむ人たちがいます。

完成した応答装置。5月に開催されたG7広島サミットでは、一部の証言に英訳を付け、国内外のメディアの記者にも”対話”を体験してもらいました
5日間で150人以上、アメリカ、イギリス、フランスなど海外の方も30人近く体験してくれました。
「子どもたち、そして次の世代にもメッセージを残せることは意義深い。」
「ここまで詳しい被爆証言を聞いたことはない、ぜひ海外でも公開してほしい。」
などの感想をいただきました。

今後、どのように活用していくかについては現在検討中ですが、いつか、多くの人たちに対話してもらえる日が来たらいいなと思っています。
そして何より、梶本さんの言葉をできるだけたくさんのひとに聞いてほしいと願っています。

草木の緑や、花々、光る川面が美しい広島。
あの日の記憶のカケラを感じることは、少し、難しくなってきました。
平和公園を通って、原爆ドームを眺める…
あの日の記憶をとどめたその姿に、1945年のあの日、14歳だった梶本さんの姿が浮かぶことがあります。

…いま、私は、何ができるのか?
誰かを大切に思い、愛し、愛され、笑い合う、何気ない日常。
その日常が、一瞬にして奪われるような恐怖を誰もが二度と味わうことがないように。
そして、いま自分たちが生きていることがどんなに奇跡的であるのか。
伝え続けることから逃げたくないと、今は、強く思っています。

ディレクター 坂口春奈

最後に…

ことし、梶本さんは92歳になりました。
いまでも、月に2、3回は会ってお話しをする、“私がいま広島で一番会っている人”かもしれません。

「最初は原爆の“ゲ”の字も知らん子が来たかと思いよったよ。」と、梶本さんは笑います。

出会ってから1年半あまり…私が『原爆』のことを“理解”できたかどうかはわかりません。
でも、私は、梶本さんという人を好きになり、梶本さんを知りたい、とくらいついた――。
もしかしたら、私が聞かなければ語る必要のなかった人生のすべてを梶本さんは語り、残してくださりました。

――「日傘さすのが楽しみじゃったんよ…来年もまたこれさせるかね…。」

私が誕生日にプレゼントしたあじさい柄の日傘をさして、きょうも梶本さんは証言に向かいます。


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