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基調講演「平和を築く学びー難民救援・紛争解決の視点から」緒方貞子(2003年)

国連難民高等弁務官等で活躍された緒方貞子さんが、去る10月22日に逝去されました。DEAR前身の開発教育協議会(DECJ)立ち上げ前の1980年に開催された開発教育シンポジウム(横浜)に登壇されたほか、2003年8月の「第21回開発教育全国研究集会」では、「平和を築く学びー難民救援・紛争解決の視点から」をテーマに講演をしていただきました。これまでの活動に感謝し、講演録を掲載いたします。

※文中の写真は、DEARが企画・運営に関わっている聖心女子大学・聖心グローバルプラザ「BE*hive」(2018年~)の展示、ワークショップの様子です。

1.難民問題

難民とは何か

難民とは、直接の意味は政治的迫害によるものを指しますが、政治化した様々な社会問題と密接な関わりがございます。まずは「難民とは何か」という話からしていきたいと思います。

難民の定義・現状についてですが、国連難民高等弁務官(UNHCR)の事務所と難民保護に関する条約は今年53年目を迎えます。そもそも国民の保護は国家が行うのですが、では国家の領土から離れた人の保護は誰が行うのか。つまり、国家による原因のために国家から逃れた人たちの保護を与えるために作られたのがこの機関であったわけです。

当初、共産圏から離れた人々を対象とし、彼らを自由な西側の国々で受け入れるためにヨーロッパで始まったのですが、その後アフリカの植民地解放そしてアジア諸国へ広がり、世界的な責任をもつ機関となっていきました。ただし、パレスチナのようにすでに難民保護にあたっている機関が入っている国は、保護の対象から除外するとしました。

現在約2000万人の難民・避難民が存在しています。彼らを保護するとはどういう意味かといいますと、まず、本国での危険、難民間の争い、庇護国においての危険等様々な危険があります。彼らを法的に保護するだけでなく、身体的・物質的にも保護していくこと、つまり、食料・保健衛生などの援助・支援があげられます。それから、正常な生活への基礎的なサービス、正常な生活であれば当然施されることであろう教育・トレーニングを提供することです。

教育もひとつの解決策の形ではありますが、主な解決策としては、
1.市民として暮らせるように第三国への定住
2.難民を受け入れている国への定住
3.自国への帰還
の3つがあげられます。今日は3の「自国への帰還」のためにUNHCRが何を行っているか、そのためには何が必要かについてお話したいと思います。

大量難民の時代

20世紀はどのように紛争があったかといいますと、冷戦が終焉するまでは、主に国家と国家の紛争であり、次第にイデオロギーの争いとなり、熱い戦い(第一次・第二次大戦)を経て、思想的・体制的戦いである冷戦へとつながります。つまり、20世紀は主に国家間の戦争であったのですが、1990年の始まりから形態がかわり、国内の紛争が中心となったのです。

私が難民高等弁務官に着任したころは、ちょうど冷戦の終焉期であり、今までの難民問題の解決、つまり冷戦がゆえに可能になった難民の帰還業務が仕事の中心になるであろうと、明るい気持ちで臨んだのです。しかし、実際は大量難民時代の幕開けでした。

私の最初の仕事は北イラクのクルド人の大量難民問題でした。クルド人は6カ国に分散し、民族の統合を願いながら各国に住んでいたのですが、その国の政府による激しい弾圧の度に彼らは難民として流出していました。湾岸戦争が終結したことで彼らは自国に戻れると思っていたのですが、イラク国内で抑えられていた部族、宗教的団体やクルド人が蜂起し、それに対しまたイラク政府が弾圧を行ったことで、結果として170万人が北イラクから、イラン、トルコへと難民として流出したのです。彼らの多くが殺害されたり、命からがら隣国へ脱出したという経緯があります。

そして、これに引き続き、バルカン紛争、アフリカ・ルワンダの大量虐殺問題のような紛争が多数おきました。

バルカン紛争は、5つの国の連邦国家であった旧ユーゴスラビアからスロベニアが独立しようとしたことから各国へ広がりました。これまで主力であったセルビア人が独立を弾圧しようとしたのです。こうして民族と民族、宗教と宗教の間でいわば骨肉の戦いがおき、各民族が純粋な自民族国家の設立をのぞんだため、「民族浄化」が過激になっていきました。80万人がヨーロッパに避難し、旧ユーゴスラビア国内で自分がもといた国家ではないところに逃げた人が120万人。100万人以上が国内避難民となりました。UNHCRはこの国内避難民に空輸で食料を届け、彼らを生かすことに努めました。

また、アフリカのルワンダの大量虐殺問題があります。これはフツ族によるツチ族へのジェノサイドでした。ジェノサイドに参加した人々が近隣に逃げていき、一週間で120万人が避難しました。この120万人の中に文民、軍人、そして虐殺を行った人が交じり合い、見分けることが困難でした。平和的なキャンプにしたい、文民だけのキャンプにしたいと思いましたが、UNHCRやNGOの力では多くの危険も伴い困難でした。

このように、1990年代は、部族、民族、宗派による対立が長年続いていた地域において冷戦構造が抑えていた国内紛争が各地で勃発し、大量難民が発生した時代だったのです。

今も続くアフリカの状況をみると、難民問題の背景にある紛争の原因には、政治的弾圧、政治腐敗に加え、土地やさまざまな資源の所有の問題があげられます。部族・民族の対立が、社会的公正で対応されていたのであれば、社会問題が政治化・紛争化はしなかったかも知れませんが、90年代においてはこういった様々なそれ以前に蓄積した不満や憎悪、不公正感が爆発したのです。

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難民の帰還の問題

難民問題は国へ帰っていくという形で一応の解決をみますが、隣の人が自分たちをかつて殺そうとしたという記憶は消えません。そしてその中で一緒に生きていかねばなりません。そのためには、かつての記憶をコミュニティ構築や人びとの協調性をつくりあげることに変えていかねばならなりません。UNHCRはそのために活動をしてきたのですが、今日さらにはそこから広がり、人間間のソリダリティ(連帯意識)に根付いた開発、人間性を視野にいれた開発を行っていかなければならないという課題に直面しています。

2.日本の役割について

グローバリゼーションの影響

UNHCRは基本的に人の命をどう救うか、そのためにどういった判断が必要かということを念頭に活動を行ってきました。

日本の役割はどうかといいますと、日本は国際協力という意味ではかなり努力してきており、特にODAは唯一対外的な外交の柱であったと思います。日本の援助は地域的にはアジアに集中しているのですが、アジア中心の開発計画はそれなりの成功をおさめており、今後は更にアフリカへの関心を育てつつあるというのが現状でしょう。今までのアジアへのインフラ中心、しかも補助金だけでなく借款も含めた様々な形を今後どう調整していくかも課題です。

また、これは現在のODA大綱の見直しとも関連することですが、ここで見逃せないのがグローバリゼーションの影響だと思います。とくに、情報革命により情報は発展し、それに伴い「ヒト・モノ・金」が動く時代になったわけですが、それに対応するにはどうすべきか。なぜなら、「ヒト」の中で条約上の規定があるのは難民(難民条約)だけなのです。

では、移動労働者はどうでしょう。情報により移動が活発化するのは、むしろ最貧国の最貧層に属する人ではなく、教育を受けた様々な能力のある人々です。そして、先進国の労働市場においてもそういった人々の需要があり、技術市場も国際化している。そのなかでどう労働を確保し、公正な人権を保護するのかが大きな問題となっています。

人間の安全保障

近年日本では、「人間の安全保障」という概念を政策の中心におこうという努力が見られます。90年代半ばのアジア通貨危機の際、福祉的援助がいき届かなかったことへの反省からです。そこで日本も社会インフラにもとづいた人間のコミュニティ、人間の安全保障を重視するようになり、これが小渕内閣のひとつの問題提起として残りました。コミュニティ構築により経済の発展と社会の安定を結びつける。これを日本の対外経済政策、特にODAの中に組み込んでいくためにも、独立した国際的な委員会が設立され、インドの著名な経済学者であるアマルティア・セン教授と私の二人は、この人間の安全保障の概念規定をするとともに政策を考えていくことになりました。

グローバリゼーションの時代においては、地理的な国土を守れても、「ヒト・モノ・金」の流れを止めることはできません。テロによりいみじくも明らかにされたように、国の安定を軍事力のみで実現することはできないのです。ではどう対処すべきか。そのためには国民に“正しい判断をする”という自由を与え、それに基づく人間のコミュニティをつくるということが大切なのではないか、という仮説のもとで、人間の安全保障という委員会をつくりました。コミュニティの安定をどのように自分たちの力で維持していけるのか。そのためには相互依存の実態の認識が重要なのですが、その実際の方法としては、上からの保護と下からの保護がなくてはなりません。

上からの保護とは、法に基づいた政府、行政の確立、そして下からの保護とは、下からのボトムアップ、つまり人々のキャパシティ・ビルディング、エンパワーメント(能力強化)のことをいいます。これは先進国においてももちろん必要であり、国づくり(アフガニスタン・イラク・アフリカ諸国など)の必要性のある国などは、さらに下からのエンパワーメントの視点と援助を強化していかねばなりません。

教育の普及の重要性

下からのエンパワーメントの中でも、特に教育の徹底が重要だといわれています。このため、基礎教育普及のための国際的合意(ミレニアム合意)もあるのですが、普及の傾向にあるとはいっても、男女平等な基礎教育が確立しているところは、先進国以外では中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、ラテンアメリカ、東アジアです。まだまだ格差が激しいのが、南アジア、アラブ諸国、アフリカ諸国です。

アフガニスタンにおいては、現在90%以上が非識字で、そういった国ではリーダーシップももちろん大切ですが、何より下からの、国づくりのための教育の徹底こそが大切なのです。これは認識こそされていますが、まだまだ実行に移すことは大変です。現在も農村などでは女子教育が行き届いていません。

初等教育に関してはユニセフ主導の「Back to school」キャンペーンが行われ、昨年3月から日本も大いに支援をしており、学校に戻った子どもは300万人。施設の問題もありますが、学校視察などで見た生き生きとした彼らの姿は、非常に国の将来に希望をもたらすものでした。今年は400万人になる見込みですが、しかしながら、親の教育は行われていません。健康・保健衛生、就職、選挙のためにも、特に農村女性対象の読み書きを始めとした基礎教育が重要だと私は思います。

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3.教育の目的について

人間の安全保障委員会がそのカリキュラム上で重視していることは、リスペクト(お互いにお互いを尊重する)意識を育てることによって、ソリダリティ(連帯意識)を育てることです。それはつまり、宗教、言語、民族的な特殊性を尊重し、他者との対立ではなく、各々の独自性を認識、尊重していけるようになることです。

ボスニア・ヘルツェゴビナを2000年に訪れた際、2つの勢力の境界線付近の学校は再開されていませんでした。それは、どういう言語で歴史を伝えるかという、教科書の内容についての合意がなされなかったからです。日本では教科書問題は政治的にとりあげられますが、政治化する前に取り組むべき問題がたくさんあるのです。

民族間の対立を経た国が、互いの民族の歴史、言語をどのように記すのか。戦前が完璧であったのならば、戦争は起きなかったのですから、戦前への回帰は答えではありません。戦争を教訓として踏まえ、どのように将来進んで行くかということを考える必要があります。その意味では日本も未解決のまま戦後50年を経てしまっているのです。学校やマスコミがこの問題をどう扱っていくか、この点を努力していくことが各国の発展のみならず、世界平和へとつながるのだと思います。

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多様性の認識と相互依存の教育

世界平和は、多様性の認識と相互依存の教育の上になりたっています。そのための教育をどう行っていったらいいのか。これは私の問題提起であり、このことに関しては、答えはございません。というのは日本の教育に関してはみなさんに考えていただかねばならないからです。

日本における開発教育は、貧困の現状、開発途上国、難民の現状を知ることにより、多様性、相互依存の知識理解を身につけ広めるためのものだと思います。それについてはみなさんから様々な提案や答えが出てくるといいと思います。

今、私どもが提案として考えているのは、組織ではなく、組織は官僚化しやすく一度組織をつくるとよくない効果も生みだすので、国際機関・NGO・国のリーダーが問題別に助けあう、意見交換するための問題別の協力体制づくりです。

開発教育は、開発について考えるだけでなくその過程で相互依存を知り、我々が多くを学ばせてもらうという態度を養うことが大切です。

貧困のみでは戦争はおきません。特殊な優越感、自己中心主義、差別感、ある人が常に優遇され、ある人が常に疎外されるという社会的不公正、といった現状を是正することにより、紛争は解決され、貧困も是正されると思います。

非常に抽象的な話をしてきて申し訳ないのですが、難民高等弁務官として仕事をしてまいり、その延長上に人間の安全保障という形があります。難民が国際的状況の中でより安定する社会、国際的環境を作るにはどうすべきか、そのためには、人間の安全保障、そのなかでも鍵となる教育を考えていくべきだと思います。■

緒方貞子(前国連難民高等弁務官)
アフガニスタン支援日本政府特別代表。上智大学名誉教授。1991年から2000年まで国連難民高等弁務官。2001年6月より「人間の安全保障委員会」共同議長を務める。

※プロフィルは2003年8月当時のものです。
※本稿は機関誌『開発教育』49号掲載記事です。DEAR会員には1部無料(年1回)でお届けしています。

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