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受け継がれてきた職人の仕事を追って 大西暢夫さん(映画監督・写真家)

大西暢夫さん(映画監督・写真家)による新刊『和ろうそくは、つなぐ』が刊行されました。これを記念し、DEAR News204号(2021年10月/定価500円)掲載のインタビュー記事を公開します。

本誌199号(2020年10月)で紹介した本『ホハレ峠―ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』が、今年5月に第36回農業ジャーナリスト賞を受賞した。「ホハレ峠」とは、ダムに沈んだ岐阜県揖斐(いび)郡徳山村の門入(かどにゅう)集落の人々がかつて街に出るために歩いて越えた峠の名だ。最後まで門入集落で暮らした廣瀬ゆきえさん(以下、ゆきえさん)の人生を丁寧にたどり、失われた人々の営みと歴史をつづった著者の大西暢夫さんにお話をうかがった。

日常を切り取った写真に心惹かれて

写真家、そして、映画監督としても活躍している大西さん。ダムに沈む村、精神科病棟、古くから受け継がれる職人仕事など、著作物も多い。写真家を志したきっかけは、故郷で見かけた一枚のモノクロ写真だったという。

「生まれ育った岐阜県揖斐郡池田町は、夜は真っ暗闇で外には動物がうろつくような田舎です。カメラマンなんていう横文字の職業の人なんていない。知っていたのは、岐阜新聞の写真部くらいで、事件やスポーツを撮るのがカメラマンだと思っていました」。ある時、本屋で立ち読みをしていた大西さんは、ふと目にした写真に心を惹かれた。それは、上野駅で子どもを連れた母親の姿を映した、何気ない日常を切り取った写真だった。

横浜の写真学校に入学した大西さんは、その写真に再会する。撮影者は、当時写真学校で講師をしていた写真家の本橋成一さんだった。卒業後は、本橋さんに師事し、カフェで働き料理も作った。大西さんが初監督した映画『水になった村』 はCS放送の朝日ニュースターでの取材映像をもとに製作した。

なぜ、ゆきえさんは村に暮らし続けたのか

大西さんが徳山村とつながったのは、「カメラばあちゃん」として有名な増山たづ子さんの東京での写真展がきっかけだった。同じ揖斐郡出身だということで、上京した増山さんの身の回りの世話を任されたのだ。「それから、東京からオートバイで500㎞の道のりを通うようになりました。23歳頃のことです。会う人会う人、面白い人ばかりで、本橋さんに怒られるくらい通い詰めてしまいました」。そんな中、『ホハレ峠』のゆきえさんにも出会った。

門入集落で生まれ育ったゆきえさんは、結婚後、開拓民の妻として北海道に移住した。真狩村で暮らしを築くも、再び村に戻り、ダム開発が進行する中で生涯を過ごした。最後まで徳山村に残ったゆきえさんには、マスコミもたびたび取材に訪れた。「なぜ、村に残るのですか?」と聞かれると、「悲しいから、寂しいから」との言葉で説明されてしまう。でも、「それだけではない」と大西さんは思っていた。「なぜ、この村に暮らし続けたのか。岐阜市内にも移転費で建てた家はあるのに、傍から見るとすごく不便な廃村になぜ住み続けるのか。そこが知りたいと思ったのです」

毎回2時間ずつくらい話を聞きながら、大西さんは結果的に30年にわたり通い続けた。あらためて聴き直した記録は45時間ほどになった。そこには、100年に及ぶ壮大な村の歴史が見えてきたという。

ゆきえさんの足跡を追い、大西さんは北海道にも何度も足を運んだ。ゆきえさんは、開拓の苦労を経て得た安定した暮らしを捨て、小さく不便な徳山村に戻った。なぜ、帰らなければならなかったのか。ゆきえさんにとって村とは何なのか…。

大西さんは「集落そのものが大きな家族のようなものだった」と著書で述べている。その家族、江戸時代から世帯数が変わらない集落を守るために戻ったのだという。しかし、村人たちが大切につないできた村のすべては、ダムに沈んでしまった。

大西さんは長崎県の石木ダム開発問題 にも関わって25年になる。「全国各地でダムに沈んだ村を取材していますが、どの村にもきっとそういう歴史があり、物語があるのだろうと思います」

受け継がれてきた職人の仕事

大西さんは、11年前から故郷の岐阜県揖斐郡池田町に戻って生活している。今は、「職人」の本を書いているという。

「いろいろな職人の話を聞いています。江戸時代からの仕事を受け継いでいる職人の中の職人。例えば、和ろうそく職人です。和ろうそくには4つの材料が必要です。芯となる和紙、芯に巻く灯芯草、それを抑える真綿。ハゼの実を絞った木蝋。その材料を作るのも、全て古くからある職人仕事です。そして、それらはすべて季節の仕事で、大量生産できないものばかりです」

今は、漆器の仕事を追っているという。

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