この世の全部は主観なんだから
こんにちは、hana です。
今回は、「人の価値観」に関するお話を少し。
ずっとこの内容を投稿をするか悩んでいました。わたしのnoteは基本、自分の体験をもとに考えたこと、感じたことが記事になっています。
ここでこの話を投稿することで、わたしの周りにいる人を否定していることになってしまうのではないか、と懸念していました。
しかし、決して周囲の人を否定しているわけでもなく、また、言われて嫌だった、傷ついた、ということも一切ありません。読んでくださった方が不快な気持ちにならぬよう、前置きさせていただきます。
本題に入ります。
みなさんが「忙しい」と感じるときは、いつでしょうか。
一時の忙しさではなく、その「忙しい」と感じる時間が数日、数週にわたって継続することはありますか?
また、みなさんの知人、家族、同僚などを見ていて「忙しそう」と感じたことはあるでしょうか。
忙しい、って、何でしょうか。
わたしにとっての「忙しい」は、ある種の快楽です。趣味です。忙しくしているのが好きですし、忙しいと感じている自分が、好きです。タスクがたくさんあったり、自由な時間が少なかったりするのは基本的に苦ではありません。周囲から、忙しそうだね、と言われるのも好きです。ついつい、忙しいアピールをしてしまうことも多々あります。むしろ予定がなく、自由な時間を与えられ続けるほうがよっぽど苦なのです。
「忙しい、って自分から言っている人って、大体忙しくないよね。」
共通の知り合いが話題に上がったときの、ある方々との会話の中での発言でした。この言葉は、わたしに向けられたものではなかったのですが、間違いなくわたしにも該当するものでした。
その時は咄嗟に、「そうですね~でも、本当に結構忙しくしているみたいですよ」とやんわりと否定したのですが、今考えると自己防衛だったのだな、とわかります。
自分自身の生活を振り返ると、確かに、時間的ゆとりが全くないわけではありません。お風呂に2時間入ったり、ご飯を食べながらYouTubeを観てダラダラしたり、しょっちゅうしています。
でも忙しいと感じるのです。不思議です。
少し話を変えます。
前回の記事にも少し書いたように、わたしは基本的に精神が強くなく、すぐ病んだり、鬱っぽくなったりします。
ですが、回復も早いのです。
それは、信頼できる人が周りにいて、その人たちに話を聞いてもらっているからだと思います。アドバイスをもらったり、励ましてもらったりすると、なんだか元気が出てきます。聞いてもらえるだけでも思考の整理ができます。
「hanaは自己開示型だから大丈夫だね」
「そうやって悩みを人に言えるうちは、まだ大丈夫だよ」
話を聞いてもらった人たちから、よく言われるセリフです。
わかっています。これは否定の言葉ではないのです。そして、もしかしたら、それは事実なのかもしれない。
自ら命を絶ってしまう人たちは、うまく悩みを話せなかったのかもしれないし、話す場がなかったのかもしれない。要は、「開示」できなかったのかもしれない。
でも、「自己開示できる人間=大丈夫」という方程式は、必ず成り立つのでしょうか。
例えば、明るく自己開示できるのは、躁うつ病の、「躁」の時だけだとしたら?
「鬱」状態の時には言えないとしたら?本当に命を絶ちたいと考えていたとしたら?
必ずしも、「大丈夫」と言い切るには不十分なのではないでしょうか。
わたしに「大丈夫そうだね」と言ってくださる方々は、きっと私の性格をわかってくれています。大丈夫ではなさそうな時と、大丈夫そうな時の違いをきっと認識してくれています。(憶測ですが・・・)
現に、わたしは「大丈夫」です。この言葉に傷ついたことはありませんし、無事に生きられています。
しかしこれは全員に、いつでも当てはまる、というわけではないと思います。
これは経験談ですが、「生きても死んでも迷惑がかかる地獄」を感じてしまったときには、心の底から絶望します。死を考えます。そのような瞬間は、わたしのような「完全自己開示型」の人間にも、訪れるのです。
「大丈夫」なんて存在しないことに気が付きました。
ここでひとつ、最近お気に入りのヨルシカさんの楽曲、『レプリカント』の歌詞を紹介させてください。
僕らの心以外は偽物だ 言葉以外は偽物だ この世の全部は主観なんだから 君も皆レプリカだ (レプリカント/ヨルシカ)
「この世の全部は主観なんだから」
全くその通りだと思います。
わたしが思う「忙しい」と、他人が思う「忙しい」には、共通のものさしが存在しません。
同じように「つらい」「苦しい」にも、共通のものさしはありません。
今、わたしが青だと感じている色は、他の人には緑に見えているかもしれない。
暑い、寒い、楽しい、悲しい、遠い、近い、美味しい、不味い・・・・・。わたしがそう感じた時、相手は正反対のことを感じているかもしれない。
似たように感じていても、微妙な違いがあるかもしれない。
すべてのものは、人間の「主観」で構成されています。
そして相手の「主観」は、わたしにはわかりません。
相手がどのように感じているかは、絶対に知ることができないのです。
「わたしはこう思っているから、あの人もそう思っているはずだ」
という考えは通用しない世界なのです。
人間の主観そのものを否定しているのではなく、他人に対して自分の価値観や主観を押し付けることを、わたしは否定したい。
「これが絶対にいいからみんな真似しろ」ではなくて、「わたしはこれがいいと感じていて、それを信じているから、みんなもどう?」くらいになってほしい。
仕事などの場面では、価値観や主観、直感が重要視される場面もありますから、必ずしも悪いとは言い切れないのが難しいところですね。
と、こんなに堂々と書き連ねているこの記事でさえも、わたしの主観、で構成されているので、もう何とも言えませんが・・・。
価値観の強要はしたくありませんので、これを読んで、違う、と思ったらそれでよいのです。そういう考え方の人もいるんだな、くらいに、頭の片隅に置いておいていただけたら幸いです。
ですが、少しでも、「確かにな~」とか、「主観を出す場面は制限してみよう」「気を付けよう」とか思ってくださった方がいるのであれば、それはとてもとても、嬉しいです。
冒頭でも前置きした通りですが、わたしと関わってくださっている方の中で、何かしら思い当たる節がある方、あまり気にしないでください。ふーん、そんなこと考えてたんだー、くらいにとどめておいてください(笑)
というわけで、主観でしか生きられない人生、どうやったら上手く生きられるのか、考えながら眠りにつきたいと思います。
是非ヨルシカさんの『レプリカント』、聴いてみてくださいね。
では、また。
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