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日本社会におけるパッケージ化された死、逃げではない物語の必要性

新型コロナが猛威をふるっている。
メディアでは、その感染者数や死亡者数が連日報道されている。
感染リスクを恐れて仕事を辞めたり引きこもったりする方の話も聞く。
一方で、感染リスクがないかのように他者との接触を繰り返す方の話も聞く。

1.人間は、メディアから提供される物語を内面化する。

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もしも、人間以外の獣たちにその新型コロナの知識と感染性を植え付ける事ができたら、その獣たちはどのような行動を取るだろうか。
私の考えだが、狩りは通常通りに行うが、獣同士で接触しないように距離を取るのではないかと思う。
つまり、現実解を自然と選ぶのではと思う。

人間とそれ以外の獣との違いは何だろう。
それは、メディアから意識的にあるいは無意識に提供される物語を、世界観として内包しているかどうかにある。
例えば、信号無視が悪いのは、事故による危険性もあるが、それよりも社会のルールだからという認識が強くないだろうか。

2.メディアは死からの逃避欲求に従い、死の情報を編纂する。

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メディアは、すべての情報を偏りなく正確に伝える装置ではない。
視聴者は自分が知りたい情報を知りたい形で聞き、メディアは視聴者の求める情報を求める形で提供する傾向がある。

その傾向の中で、死の情報はどのようにパッケージ化されるか。

まず、一般的な死は隠蔽される。
日本で1日に平均3280人の方が亡くなっていると「日本の1日 - 厚生労働省」(調査期間:平成17年~平成22年)にあるが、その数をどの程度の方が知っているのだろう。

例外的な死は、主に死亡者の有名度合いに応じて、二種の対応に分かれているように見える。

無名であれば、抽象化させる。
危険度を知りたい為に死亡者数という数値で語られ、その死亡状況を回避したい為に状況説明用のマネキンとなる。

有名であれば、物語化させる。
生前の活動やその成果を美化し、感傷を呼び起こす為の舞台装置となる。

どちらにしてもリアルな死は伝えられない。
そこには、死亡者の痛みや苦しみを知りたくないという逃げがある。

だから、自身がリアルな死を目の前にすると、困惑し動転する。
内面化した物語には存在しないからだ。

3.死を受け入れつつも、その苦しみを緩和する物語が必要だ。

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物語を内面化する事は悪い事ではない。
新型コロナに限らず、病や怪我を負って死亡する危険性は常にあり、そもそも全人類が老化という致死性の不可逆的な病におかされている。
死が避けられないものである以上、その苦しみを緩和する為の物語は必要になる。

だから必要なものは、リアルな死を受け入れつつも、それに対する苦しみを緩和できる解釈の物語だ。
先人の知恵に従えば、例えば「死ぬ」を「消える」ではなく「あの世に行く」と解釈する物語だろう。
それを体系化したものが、宗教だ。

4.メディアによってクリティカルシンキングに耐えうる物語の提供が必要だ。

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ただし、先人たちの時代と異なり、私たちはビジネスや学問の基本としてクリティカルシンキング(批判的思考)を教育される。その中で宗教は根拠がないと否定されがちだ。

ならば、私たちには、クリティカルシンキングに耐えうる大きな物語が必要だ。
新型コロナによって死がより意識されるようになってきた今こそ、メディアがそれを提供する必要性をより強く感じる。

5.私への物語

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私が私自身に伝えられる物語としては、次のものだ。
少しでもあなたの助けになれば嬉しい。
自分への余命宣告を受け入れる為のメッセージ|nezuq|note

ご援助頂く事があれば、治療費か生活費に使わせて頂きます。