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教育現場から思う「あの子はそうだったのかもしれない」~リフレクション「ギフテッドの子育て講演会」(前編)~

2022年12月4日に千里金蘭大学で開催した「ギフテッドの子育て」講演会にご参加いただいた皆様、お久しぶりです。フォーラム会場でご意見をくださった現役の先生のお話をもっと伺いたいという声が寄せられました。このたび、先生をNESにお招きして、講演会のリフレクションの会を開催してみました。

「関係ありそうな話」じゃない。「どストライクな話」

谷村先生:先生は比較的フットワーク軽く、ご参加いただきましたが、一般的には先生方にとって、あのような場に来られるというのはまだまだ敷居の高いものかなと思います。そのような学校の中を知る先生として、あの講演会でどんなことをお感じになったか伺ってみたいと思い、お呼びしました。本日同席の保護者のお2人もいろいろ聞きたいことがあると思うので、フリートーク形式でお話させていただこうかなと思っています。

フォーラムの終盤で、高山先生がたくさん発言してくださいましたよね。先生が、学校の中で(ギフテッドの子どもたちの大変さに)気づいていなかった、とお話されていたと思います。学校の先生として、どのようにお感じになり、これからどうしていこうとお考えになったか、というあたりをもう一度ざっくりと伺いたいです。その他、感想や、聞いていて思ったことや、それ以外でもいいのですが。

高山先生:本当に...グッとくるものがあったなという印象でした。僕は、谷村先生のFacebookの投稿からこの講演会について認識していましたが、正直に言うと、僕には他にもやらなくてはならないことがたくさんあるし、と思ってスルー気味だったというか、自分の興味とは違うところにあるもの、と思っていました。
しかし、その後、谷村先生から直接お誘いいただき「せっかくお声掛けいただいたし、何かのチャンスと思って行ってみようかな」と思い立ち参加してみたら、まさに、どストライクな話でした。不登校の話なんかは僕も大事に取り扱ってきているケースですし。

先日もタイムリーに「不登校児の8.8%が発達障害」というニュースが流れてきたのを見て、やはり「その子が原因」という考え方がまだまだ根強いなと思っていました。そうではなくて、環境を変えることで、どんな子供でも過ごせる学校にしていくという考え方を僕自身が大事にしてきたなぁと思いながら参加をしたので、「なんだ。ど真ん中の話だったんだ」ということを1つ、大きな感想として持ちました。
その一方で、「ギフテッド」という言葉は、「特異な才能を」という(文科省の)あの文言の方が先入観というか印象がありました。学校に困り感があることも情報としては入っていたはずですが、それは「自分の勉強のペースと合わない」ぐらいの、そんなもうすごくすごく浅い理解しかなかったんです。だからフォーラムに参加して本当に勉強になったし、実は自分がギフテッドとわからずに苦しい思いをしている子供が目の前にいるんだろうなという実感を持って話が聞けたなと思います。

谷村:「あの子はそうだったのかな、と思い当たる子がいる」というのは、確かフォーラムのときにもおっしゃっていたように思います。その子は実際に先生の目にはどういうお子さんに見えたのでしょうか?

高山 :1人は多くの人の前でしっかり発表することもできる子で、それでも休みがちになってしまった子です。それが僕自身は簡単にこのギフテッドでそうじゃなくてっていうことをできるようなことではないと思うんですけど、もしかしたらそういう捉え方もできたのかなっていうふうには思いました。

谷村:そういうときって、本人が例えば「授業がつまらない」と具体的に先生に言うことがあるんですかね。

高山 :周りの雰囲気にものすごく敏感です。どうしても気になってしまい、本当はスルーできたらいいんですが、「あの言葉が許せなかった」とか、そういったことでしんどくなってしまったこともありますし、トラブルもあったと思います。

谷村:見えるところと見えないところがあると思うので、「1日学校にいたら全部わかってるでしょう」って思うのも間違いだと私は思います。
学校で子供が何を言うか、先生に何を伝えるかって、お子さんも取捨選択しているはずです。だから、人間関係がしんどそうだと思っていても、授業もつまらないというのが合わさっているとか、「授業がおもしろくないねん」というのに人間関係が重なっていることもあるだろうと思います。全てを理解しているというのは先生の業務的にはなかなか難しいことなのでは?という気がしています。

自分から「ギフテッド」と看板か何かを背負って歩いてくれるわけではないので、聞き出すのもちょっと難しいかもしれませんし、余計にモヤモヤとした感じになって、現場としては見えにくいことになるのかなと思います。

瀬戸口:「勉強が面白くないねん」とか「わかりすぎて簡単やねん」というようなことは、先生には言えないというか、子供たち、特に感受性の豊かな子供たちは人の心の微妙な部分も想像できると思うので、特に親しい先生に対してそういうことを言うのは抵抗があるし、言えないと思います。周りの子供たちとトラブルになることもあるでしょうし、ならなくても、いっぱい感じ取ってしまって、すごくしんどい思いをしている、いわゆるHSCと呼ばれるような、そういうタイプの子供たちも、何か人のことを感じてしまうものがあるため、思っていることを口に出すことをあまりしない部分もあるのかなと思います。
よく喋る子供であっても、本当の本音を言っているかどうか、そこを選んでいるような気がするので、なかなか難しいと思いました。

谷村:そういう目で見ようとしない先生がいたら、わからないことが多いと思います。大きな問題が起こらない限り、気にする必要はないと思いますが、日々の中で気になることがあるかもしれませんね。

ギフテッドかなと気づいた後の課題感


高山先生を囲んでお話を伺うNESメンバー

谷村:先生方に「ギフテッドっぽいな」とか何かそういう「ニーズがあるんかな」と気づいてほしいというのが、会の保護者の方々の一応の総意だったと思いますが、まずその気づくということの難しさがありますよね。その段階を乗り越えた後、次に何ができるのかできないのかという話になると思います。
気づいたときに、どんなことができるのか、できないのかという話になると思いますが、高山先生はどんなことを考えられましたか?

高山 :いやあ、難しいですよね...
私は3月まで授業を持たない立場の教員として、いろんな他の仕事をしています。普段の授業で「どんなことができるか」という課題解決策までなかなかたどり着けません。

例えば、授業をみんな座って黙って聞く時間を少なくできないか考えてみます。これは、授業を持っていたころに試したことがありますが、最初の10分だけ授業してあとは立ち歩いてもOKにすることでした。でも一応授業全体のゴールは「みんながここまではわかること」と設定して「はいどうぞ!」って始めます(笑)。よほどのことがなければ、口をはさんだり怒ったりとかしないのが教師側のルールです。
授業の最後に「ここまで理解するって目標を達成できたと思う?」と問います。アクティブラーニングの手法でよく紹介されるような流れですね。
私は数学の少人数クラスの授業などは持っていたので、そこではかなり自由にやらせてもらいました。人数が少ないと指導のハードルも下がります。休憩が1時間より長いような子もいて「ぼちぼちやろか」という感じで進めたり。1人1人が進度の違う勉強の仕方を少人数化やその他の方法でもっと広がっていけばいいなと思ったりします。

谷村:クラスの人数の話でいうと、クラスサイズって国が決めてるものですし、そこはもう動かしようがないじゃないですか。少人数編成にすることはできるけど「クラス」という縛りがある中でギフテッドの子たちはどうしたら?というところは正直考えてないよなと思うんです。決まった枠設定があって「決まってますから」だけど、そこにそういう子がいて「ではどうする?」ってところは分からない。誰も責任が取れない構図がそこにある気がしてならないんです。

高山先生のお話を伺っていて「そうか先生はアクティブラーニングとかそっち派の人だったんだ」と感慨深く、なるほどだから親和性が高いんだなと腑に落ちる感じでした。

当事者も親も、何かを「与えて欲しい」とは実は思っていない

谷村:個々に目を向けるスタイルで教室を運営する先生は工夫の余地があるが、やはりクラスという枠組みの中で求められるあり方は、「しょうがないよね」という態度では、その子たちにとって良い要素ではないと思います。そこを何とか改善する必要があると思います。みんながそう思えば変わるものなのか、変わらない気もするのか。皆さんはどう思われますか?

和田 :学校で学ぶことを完全にカバーするのは、親から見ても正直「無理だろうなこれは」と思います。いや、無理ですほんとに。彼らの知的好奇心や衝動といった過度激動に教室運営のテクニックで対応するのは無理です。だってバラバラに過度激動ですから(笑)
ただ一点、学校の先生が「分かってるよ」と表現してくれることはとても重要だと思います。
例えば、博物館へ遠足で見学に行って、その子のスペシャリティに合った学芸員さんと繋げてあげるとか、学校だからこそ知っている施設や人物につなげてくれたらそれはとても嬉しい。ちょっとしたタイミングで手を加えたり、さじ加減を調節して「わかってるで」って伝えてくれるだけでも子供たちは嬉しいんですよ。彼ら自身「無理ですよね」ということをどこかで理解していたりするんです。

自分の教室運営の枠に入れて無理に進めるよりも、「いやすまん、先生は今日全員にここまで分からせないといけなくて必死やから、君のその興味は応えられへんけど、どうしたらいいかな」と正直にフラットに付き合ってくれる先生に対しては、むしろギフテッドの子たちは信頼を寄せて態度も変わったりするんですよ。どっちかっていうと、自分の人権だったり、自分の興味関心だとか、気になることとかを理解した上での「これなんだね」ということがお互いにシェアできていると、「いいよ全然こっちやっとくわ」とか、「何か頭で違うこと考えとくわ」とかができる子もいる。それだけでだいぶ変わってくるように思います。

うちの子の学校では、お楽しみ会で彼が作った曲を使って「椅子取りゲーム」をしてくれたり、教室のスクリーンにオリジナルの動画を流してみんなに見せてくれたりするんですが、それだけで嬉しくてたまらないようです。
授業参観に行って見てみると、本人としては授業を一生懸命聞いていると主張するのですが、恐らく授業だけ聞いている状況が耐えられないので、無意識に手元のiPadで3つぐらい同時に作業をこなしているんですよね。パッと見授業態度ものすごく悪いですよ(笑)。それでも「アイツやし、まぁええか」って感じである程度放っておいていただいているのだなということが分かり、ほんますんません、なんですがありがたいです。
意外と、学校でその子のズバリ求める学びの機会を与えてくれなくていい、ほっといてくれたらいいっていうギフテッド児の保護者は多くて、じゃあどうしていこうかなって向き合ってくれる先生とはみだすと押し込めようとする先生がいて、そこがわかれ道なんじゃないだろうかっていうのが私の思うところだったりします。

瀬戸口:「学校だけではできない」という部分には、私も同意します。
フォーラムの時は、私自身が理解していなかったのですが、息子が自分の否定的な気持ち、嫌だとかやりたくないとか学校に行きたくないとか、授業がつまらないとかといったマイナスのことを言わない、「言ってはいけない」という思い込みを強く持っていることが最近わかってきました。多分、学校の先生が何時間かけても息子からは意見を聞けないと思います。

小学校の時から、よくそういうことがあって「どうしたいの?」とか「どんな気持ちなの?」と言われても何も言わない。家でも同じような形で聞いても何も言わず、否定的なことを言うと、「お父さんやお母さんが怒るんじゃないか。先生が怒るんじゃないか」と思うと言えないという気持ちを持っていたことが最近になってわかりました。自分の考えていることを言葉に出して出せないのではなく、うん、言っていいって思っていなかったんです。

先日、一緒に出かける用事があって、出かける直前になって行きたくなさそうなんですね。私はもう出かけなければならなかったので、「どうしたいの?どうするの?」と聞きました。「嫌だ、行きたくない」と言われたら、1人で行こうと思っていたから。でも、全然返事がありませんでした。
例えば学校でも、「保健室へ行っていいよ」という声掛けがあっても、本人は動かないといったことがあるのですが、子供の中では、「否定的なことを言うと相手が怒るのではないか。言っては駄目なのではないか」という思い込みが強い。自分のマイナスの気持ちを言っても大丈夫だって中学1年生になっても、まだそういう状態で、縛りがかかっていました。

息子が「お父さんにそういうこと言ったら怒られるし」と言います。お父さんが言う「どうしたいの」とお母さんが言うそれは違うんだよって。同じ言葉なんだけど、お家で親にそういうことを言っては絶対駄目ってなっていた。人が変わっても同じ言葉でも、別の人が言った言葉だから、同じ言葉だけど、答えてもいい場合があるんだよってことをわざわざ教えてあげないと、それが解除できない。私は、この間ようやくそれがわかりました。もしかしたら、そういうことは家庭の中で処理するべきことなのかもしれませんが、それができていない場合もあるんだっていうこと。それは学校でそこまで考えてできるかと難しいと思うんですね。

和田:恐らく早期療育などの分野にも関連するのではないかと思います。二次障害の子供たちには、そのような傾向が多く見られます。後から一生懸命聞き出すのではなく、ケアがより重要だと思います。

瀬戸口:そうですね。そういう子供たちにとっても、話せないということはケアが必要です。ただ、そもそもそこに到達できない場合が非常に多いと思います。本人の能力や、話せない子供だと思い込んでしまっている場合、いくら時間をかけて聞いても本音を言わないようになってしまうことがあります。そのため、そのようなケアにつなげることができなくなってしまいます。

子供本人が非常に頑固な場合、そのような話になってしまいがちです。
私たちの場合も、学校の先生から「絶対言わないんですよ」と否定的に言われることもありました。先生たちは時間をかけて聞いてくださいますが、本当に時間がかかります。忙しい先生方にとっては、そのような時間を割くことはできず、原因も見えないため、「この子供なので」というように判断されてしまいます。そのため、本人自身も気づかないうちにそのような認識になってしまうことがあると思います。そのような意味でも、療育的な支援につなげることが難しいと思います。

環境調整:子育てに関わる皆に知って欲しい


画像は「https://www.teensmoon.com/chart/【図表でわかる!】発達障害-x-合理的配慮-|「タ/」より

和田:わが家の場合は、発達障害と高IQとどちらの現象に対してもかなり早い段階で気付いて吟味して、早期に療育をスタートしたんです。4歳ぐらいからかな。療育を始めると同時に保護者に対する手厚い研修がある施設に行っていて、夫婦でめちゃくちゃ勉強しました。

発達障害の文脈だとそういうことが学べる場所っていうのがあるんですが、でもそれ本当は発達障害の診断関係なく普通の子育てをしたい人も学ぶべき話だなとものすごく思いました。「平等と公正は違うよ」とか「困った子は困っている子」とか「スモールステップとは」とか。そういった学びを得て思うのは、それを育児のスタート時点に立った人が知ってると強みになる。だからそれを保育園や幼稚園の先生たちにも知ってほしいし、あとは低学年を持つ小学校の先生とかが、その辺をわかっておられると「あ、あれちゃうかな」という気づきを共にシェアできて、その子だけに原因を求めず「悪い子じゃないんですよね」という前向きな対話が生まれやすいのではないかなと。

どの立場からも関係なしに学びのある話がもりだくさんで、そこを一緒に共有したりできる方法があるといいのになと思います。現状は「発達障害」と診断されないと、親の研修を受けるというルートには自然にはつながらない。うちはそういうことに興味があった(親も当事者寄りだった)ので、割とすんなり療育の道につながったのですが、気軽にと言うと語弊がありますが、そうやって多くの保護者の方や子供を預かる側の人にもっと入り込んで知って欲しいなと思うんです。

瀬戸口:うちは逆で、発達障害かどうかっていう疑いだったり、そうかもっていうこと私が子供を育てていて全く感じたことがありませんでした。だからそこで病院で診断されるものにも病院に連れて行こうと思っていなかったし、私自身が割と息子と似たタイプで気持ちがわかっちゃうので、それが何か社会で問題かどうかっていうことや、ちっちゃいうち特に育てにくいとも思っていなかったので、全くその引っかかりはなかったんですよね。
でもそれはわが家だけのレアケースではないと思っているんです。

なんとなく同調してるというか、似たもの同士だったら、気づかないうちに何のケアも受けずに何の気づきもなく育ってしまうってことはあるんじゃないかなと。昔だったらそのまま大人になっていたのが、今はきっちりと、より社会性を求められている状態で、それがすごい合わないっていうのが、特に私の子供時代よりもっと今の方が多分違和感のある子になっちゃうんだろうなとか思ったりします。

「見逃してもらえない何か」というのがあるのかなって。
今からじゃ遅いのかもしれないけれど、知りたいです。保護者としてとか親としてどういうふうに子供の困った困った子をどこに何が困ってるのかっていうのを今からでも気づいてあげられたら、もう少しケアできることがあるのかもって。

和田:「遅い」と思う必要はないと思う。幼児期を過ぎて少年から青年に成長していく過程で、すでに自分自身の「特性理解」をするとよい時期に入っていると思うんです。親が守って導くのではなく、当事者自身が「私はこんなタイプの人間で、このように配慮をしてもらえると、パフォーマンスを発揮できます」と言えるようになることが理想だと思っていて、将来的には、このようなアプローチが許されるような社会になっていってほしい。

今後、子供たちは自分が社会の中でどのようなトラブルを引き起こしやすいかを理解し、親だけが知る必要のあることではなく、本人自身も一緒に理解していく時期に入っているのではないでしょうか。自分で環境調整ができるようになれば、「心地よく過ごすためにはこうすればいい」ということができます。

「環境調整」という言葉は、誰にとっても重要であり、必要とされるものです。すべての要望が受け入れられるわけではありませんが、交渉の余地があることを理解することが大切です。不満をぶつけるだけでなく、「こうしてもらえると、こんなことができるようになります」といった言い方を学ぶことで、周りの人々に嫌な気持ちを与えずに済みます。このようなことは、大人になってからでも学ぶことができます。

息子の通う学校には、支援学級にとても適切にフォローしてくださる先生がいらっしゃいます。でもそれは「ラッキー」なのかもしれなくて、学校や先生によってはバラつきがあるようですが、子供たちのさまざまな特性の散らばり度合いを思うとある程度は仕方のないことだと思います。
そのため、家庭が学校と情報を共有しながら協力し壁を作らずに対話できることが非常に重要で、特に家庭が主体性を持って取り組んでよいのではと感じています。

谷村 :本人の自覚が必要というか、特にギフテッド系の人たちは、自分の特性を理解して、それをうまく言語化して前に進んでいく人が多いですよね。言葉にする力があるから、療育系の界隈では当然知っていることも、何か「そうだよね」と共通理解している気がします。そういえば、学校の先生には、その子自身が自分の特性をどう理解するかという視点があるのかなと思いました。

先生目線だと、助けてあげないといけない対象だったり、なんとかして教えてあげないといけない対象と見えてしまうから、自分がなんとかするというふうに逆に構えてしまうのかもしれません。でも、それはもう、要するにその子のことはその子がマネジメントできるようになりなさいよというメッセージであって、先生的にはそういう見方ができるのかもしれません。ふと思いました。いかがでしょうか。

高山 :聞いてて思ったことと、今の話に繋がるかどうかわかんないんですけど、何かそうやってご家庭とかで取り組まれたり、これからやっていこうという中で何か学校としてできることはあるなと思います。

まず1つは、自分の思ってることを言ったら否定されるんじゃないかとか、怒られるんじゃないかとか、言っちゃいけないんじゃないかっていうのは、おそらくはじめからそう思ってるんじゃなくって、どこかで学び取ってるんだろうと思います。そして、その原因が学校にあるケースはきっと少なくないんじゃないかと想像をしています。いろんな子供がいるし、実は想像以上のことを悩んでる子だっているし、ってことをわかった上で自分を出し切ったときに、もちろんそこで対話してこうした方がいいとかいうのはあると思うんですけど、否定しないっていうことが大事なのかなと思いました。

否定というのはかなりの傷つき体験になるんやなってことを思ったので、そのあたりが現場に広がっていくといいですよね。


この後、お話は後編の「インクルーシブ教育について」というテーマに突入します。投稿をおたのしみに。


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