理想の自分というのは、目指すものではなく「実はすでにそうである」と気づくものだ。
理想の自分がいる。
人気者で、面白くて、話し上手で、誰とでもすぐに仲良くなれて。そんな理想の自分を想像する。
そしてそうではない自分がいる。理想とは程遠い、現実の自分にがっかりする。なぜわたしはあの憧れの人のようになれないのだろうと、憧れの人と比べて落ち込む。
でももう、できないのは仕方なじゃないか?
できないように生まれついてしまったのだから。
あの人のようになれないのは仕方ないことじゃないか?
わたしはあの人ではないんだから。
できない、理想通りでない自分が自分なのだ。そのように生まれついてしまったのだ。
もうそろそろ、諦めてしまってはどうだろうか。
わたしには、それはできないのだ。わたしには、憧れのあの人のように振る舞うことはできないのだ。わたしは、理想のわたしになれないのだ。
…
そんなことを思っていた今日、通っている語学学校の先生から期末の結果フィードバックがあった。これまでの成績評価と、次のクラスを選択するためのものだ。
結果が書かれた用紙には先生からの個人評価の欄があり、そこには「Yukariは明るく熱意のある生徒で、他の学生とうまく関わっている」という一文が記されていた。
わたしは人と関わるのが苦手で、あまりうまく振る舞えない。軽くふざけたノリでかかわるのも得意ではない。
人との間に壁をつくりがちで仲良くなるのに時間がかかり、すぐにうちとけて楽しく付き合うのが苦手だ。
そんなふうに思ってたのに、先生からはまったく逆の評価をもらった。明るく、人とうまく関われる。どうやらそれが、周りから見たわたしらしい。
…
何年か前に支柱推命の占いを受けたことがあるのだけど、そのとき占い師さんからわたしの性質を教えてもらった。
唯我独尊。わたしはわたし。サッパリあっさり。革新的。その場その場の人生。遠慮しない。嫌われ者になっても気にしない。馴れ合いがきらい。あっけらかんとしている。
驚くことに、これらはすべて当時わたしがなりたい理想の自分だった。
人というのは基本的に、自分が持っていないものに憧れない。静かに生きるのをこよなく愛する人は、活発になりたいとは思わないし、表舞台に出て活躍できる素質のある人しか、スポットライトが当たる人に憧れない。
「理想の自分」「こうなりたい自分」というのは、実は生まれ持った性質なのだ。
わたしたちは勝手に自分を「理想とは程遠い」と思っているだけで、実は周りから見たら実はもう、今の自分は理想の自分なのだ。
だから理想の自分というのは、目指すものではなく「実はすでにそうである」と気づくものなのだ。
そこに気づいたとき、理想の自分を目指したり、憧れのあの人に近づこうと努力する必要がなくなり、「自分は自分を生きればいいのだ」ということに気がつく。
理想の自分を生きるというのは、自分を生きるということだ。
自分を生きよう。
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