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「ウエストサイド物語」の作曲者!レナード・バーンスタイン・・・佐渡裕、新日本フィルとの「点と線」

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は1月27日、28日の定期演奏会(トリフォニーシリーズ、サントリーシリーズで取り上げられる「ウエストサイド物語」とその作曲者レナード・バーンスタインのお話から、バーンスタインと新日本フィルの多角的な「つながり」についてのお話です。1990年の筆者の思い出からバーンスタインと今回の公演で指揮台に立つ「バーンスタイン最後の弟子」である佐渡裕さんへの筆者の熱い思いを感じながらお読みください。新年にふさわしく「新春特大号」のボリュームでお送りいたします。

イタリアにヴェローナという街がある。野外オペラの劇場として世界的に知られた「アレーナ・ディ・ヴァローナ」がある土地としても知られているが、この街の名を世界的に知らしめることになった戯曲がある。それはイギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアの代表作「ロミオとジュリエット」。物語の概要は敵対する家のそれぞれの若者が恋に落ち、その禁断の愛のさなかに主人公の男性の親友が殺され、実行犯である主人公の女性の従兄弟を主人公の男性が殺してしまう。そして主人公たちも最終的に両名とも死んでしまうという悲劇だ。簡単にいってしまえばそのような話なのだが、シェイクスピアの戯曲は多くの登場人物が複雑に絡み合ったドラマが展開される。この物語は多くのオペラやバレエの題材にもなった。有名なところではプロコフィエフのバレエやグノーのオペラなどが知られている。またベルリオーズには、劇的交響曲「ロミオとジュリエット」、チャイコフスキーにも幻想序曲「ロミオとジュリエット」という作品があり、現在でも広く演奏されている。また多くの映画作品も残されていて、イタリアの巨匠ゼッフィレリが監督し、ニーノ・ロータが音楽を担当したものが特に有名である。

ヴェローナ「ジュリエットのバルコニー」


その「ロミオとジュリエット」を20世紀のアメリカに舞台を移して翻案した作品がミュージカル「ウエストサイド物語」だ。舞台をヴェローナからニューヨークに、対立する両家は対立する少年ギャング団となり、ジュリエットの従兄弟ティボルトはマリアの兄ベルナルドに置き換わった。ロミオとジュリエットの相談相手として登場する修道僧ロレンスはトニーが働くドラッグストアの主人ドックに、ティボルトを殺したロミオに追放を命じたエスカラス大公はシュランク警部補に置き換わっている。話の流れはほとんど「ロミオとジュリエット」を踏襲しているので「ウエストサイド」を知らなくても「ロミオとジュリエット」を知っていたら物語を楽しめるし、逆もまた然りだ。ふたつの物語の大きく異なる点は、女性主人公が最後に死んでしまうのがシェイクスピア、死なないのが「ウエストサイド物語」である。

映画「ウエストサイド物語」のポスター(1960)

このミュージカルは1957年に上演されたが、1960年に映画化され大ヒットした。アカデミー賞ではノミネートされた11部門のうち10部門を受賞するという栄誉に浴し、興行収入も第2位というヒット作となる。そして2022年2月には日本で新しい「ウエストサイド物語」が公開される。監督はあのスティーブン・スピルバーグだ。今から公開が楽しみである。スピルバーグの映画に欠かせない人物である作曲家のジョン・ウィリアムズは、1960年公開の「ウエストサイド物語」でピアノを担当している。このようなエピソードにも何か運命的なものを感じてしまう。そしてこの「ウエストサイド」の音楽を作曲したのが指揮者としても有名なアメリカの作曲家であるレナード・バーンスタイン。バーンスタインは間接的にではあるが新日本フィルとの縁浅からぬ人物なのである。

レナード・バーンスタイン(1971)


レナード・バーンスタインは1918年にアメリカのマサチューセッツ州に生まれた。同年に生まれた有名人は元内閣総理大臣の田中角栄、中曽根康弘などがおり、音楽関係者としては「浪速のバルトーク」とも言われる作曲家の大栗裕がいる。ユダヤ系アメリカ人の家系に生まれ、父親サミュエルは理髪店を経営していた。当初の名前は「ルイス・バーンスタイン」だったが、のちに「レナード」に改名した。名門ボストン・ラテン・スクールを経て、これまた名門のハーバード大学、カーティス音楽院で学んだ。ハーバード出身の作曲家といえば、ルロイ・アンダーソンの名を思い浮かべる読者は「オトの楽園」の熱心な読者に違いない。

カーティス音楽院の外観


彼が作曲を学んだのもまた、アンダーソンも師事したウォルター・ピストンである。彼が指揮者を志すにあたり大きなきっかけとなった指揮者は、当時アメリカで活躍していたギリシャ人指揮者ディミトリー・ミトロプーロスだったそうだ。そのミトロプーロスの勧めでカーティスではフリッツ・ライナーのクラスで学んだ。ライナーはピッツバーグ交響楽団やシカゴ交響楽団の演奏水準を高めた名指揮者であるが、厳格かつトラブルを呼ぶ人物として知られていた。ライナーの指導は厳しくも熱心なものであったようだったが、バーンスタインは「彼を崇拝している」と発言するほどにライナーに学んだことを感謝していた。ライナーもバーンスタインの才能を認めていて「奴は天才だ」と評していたそうである。バーンスタインの成績は他のライナーの弟子に与えることのなかった「A」評価だったそうである。

フリッツ・ライナー(撮影年不明)


このように優秀な成績で将来有望と思われるかもしれないが、カーティスを出た後は、ボストンでクーセヴィツキーのアシスタントなども務めたものの、あまり仕事に恵まれない「不遇な時期」を過ごす。しかし彼に転機が訪れる。アルトゥール・ロジンスキーの指名でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任。そのことを契機にバーンスタインの「アメリカン・ドリーム」はさらに大きく花開く。副指揮者になった1943年、ニューヨークフィルの公演を指揮する予定だったブルーノ・ワルターが急病で降板、代役に指名されたのである。最初の知らせを受けた時のバーンスタインは前夜に泥酔し二日酔いだったそうだが、急ぎワルターと面会し打ち合わせ、その後リハーサルも満足に行えないままで公演を指揮、大成功を収めた。当日はラジオの全米生放送があり、このアメリカ生まれの青年指揮者のデビューは国中の大きな話題となったのである。バーンスタインは一夜にして「時代の寵児」となったのだ。洋の東西を問わずこのような成功物語は現代ではなかなか起こり得ないことである。それだけダイナミックな時代であったのだろう。その日のプログラムはシューマンの「マンフレッド序曲」、アメリカ人作曲家で映画「ベン・ハー」の音楽を担当した」ミクロス・ローザの作品、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」、そしてワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲であった。このラインナップをほとんどリハなしで指揮し、大成功に導いたバーンスタインはやはり「稀代の天才」といえよう。指揮をするのが特に難しい曲が並んでいるゆえ、僕が同じ状況に置かれたら緊張に押し潰されるに違いないが・・・仮にそのような機会が舞い込んできたら覚悟を持って引き受ける用意はできている。

ブルーノ・ワルターのカリカチュア(1913年)


この成功により1958年にはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任する。このポストについたアメリカ人はバーンスタインが初めてで、彼はこのポストに1969年まで務めた。それに前後して作曲活動も多忙を極め「ウエストサイド物語」や「キャンディード」もこの頃の作品だ。純粋なクラシック作品も含め、彼の最も充実した時期ともいえる。余談だがニューヨークフィルにおいては「キャンディードを指揮する指揮者はバーンスタインのみである」との考えから「キャンディード序曲」を演奏する際は「指揮者なし」で演奏するのが通例となっている。オーケストラのバーンスタインに対する敬意がうかがわれるエピソードだ。またこの時期にはたくさんのレコードを録音しておりバーンスタインとニューヨークフィルの黄金時代とも評される。

また新しいメディアであったテレビでのクラシック音楽の啓蒙や教育プログラムにも積極的に関わり「ヤング・ピープルズ・コンサート」をはじめとした彼の功績は非常に大きいものである。このコンサートのDVDは現在でも発売されており買い求めることができる。興味を持たれた方は是非視聴していただきたい。彼の音楽監督時代に副指揮者としてバーンスタインをサポートした指揮者がいる。その指揮者こそ小澤征爾マエストロだ。バーンスタインがそうであったように、小澤マエストロもニューヨークフィルの副指揮者を務めることでスター指揮者の道を歩んでいくことになったのである。そして「ヤング・ピープルズ・コンサートのようなものを日本で」というコンセプトのもと、新日本フィルが中心的役割を果たし、新日本フィルの指揮者団の1人であった山本直純マエストロが司会、指揮、作編曲、構成に八面六臂の活躍をして人気となったテレビ番組「オーケストラがやってきた!」に繋がるのである。

「ヤング・ピープルズ・コンサート」を指揮するバーンスタイン


ニューヨークフィル辞任後は世界各地のオーケストラに客演して人気を博した。同時代を生きた指揮者カラヤンやショルティと共に幅広い音楽ファンからの支持を得て「当代随一の巨匠」の1人となったのである。マーラーやベートーヴェン、ブラームスをはじめ、母国アメリカの作曲家や、フランス、イタリア、ロシア、スラブ系諸国、スカンジナビア諸国の作曲家も積極的に取り上げ、どれも名演、名盤である。若い頃の演奏はテンポも速く、非常に快活な演奏が多いが、年齢を重ねるにつれてテンポを落とし、じっくりと1音1音を聴かせる演奏に変化していったのもバーンスタインの特徴の一つだが、テンポが落ちても音楽の推進力が落ちることなく、音楽が冗漫にならなかったのはバーンスタインの力量の高さに他ならない。

酒量も多く、また相当のヘビースモーカーであったこともあり、晩年は肺がんとなり1990年に指揮活動からの引退を表明した5日後に死去した。72歳の生涯であった。バースタイン終焉の場所は、ニューヨークの高級マンション「ダコタ・ハウス」。このマンションはかつて元ビートルズのジョン・レノンが凶弾に倒れた場所でもある。

ジョン・レノンが撃たれたニューヨーク、ダコタハウスの南玄関

そのような健康状態のなかでも音楽に対する愛情は変わることなく、1989年のベルリンの壁崩壊記念コンサートでの「第九」の指揮、同じプログラムでのプラハの春音楽祭への出演など政治的、社会的なメッセージを発することを臆せずする音楽家でもあった。その当時中学生であった僕は、N H K教育テレビの「芸術劇場」で連続放送されたバーンスタインのマーラー、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲全集の映像でバーンスタインのエネルギッシュな指揮姿に魅了され、日夜バーンスタインを追いかける日々を過ごしていた。中学生としては一風変わっていると我ながら恥ずかしく思うが「14歳に聴いていた音楽が、のちに大きな影響を及ぼす」という話を聞いたことがある。確かに僕にとってのクラシック体験、バーンスタイン体験が現在の自分に繋がっていることは疑いのない事実だから、それはあながち間違いではないかもしれない。特にエジンバラ、イーリー大聖堂でのマーラーの交響曲第2番「復活」のクライマックスのバーンスタインの指揮姿に衝撃を受け、人知れずその指揮姿を真似していたことを今告白する。

ロンドン、ウエストミンスター寺院


1989年のクリスマスにベルリンの壁崩壊を記念する第九演奏会が行われた。その模様は衛星生中継で日本でも放送されたので、クリスマスにその模様を食い入るように見ていたことを思い出す。その中継は普段エンターテイメント、娯楽系の番組を放送するB S2ではなく、ニュースやドキュメンタリーを放送するB S1で放送された。「ニュース的」なできごととしての扱いだったのだろうか、僕の記憶ではB S1でクラシックのライブを中継したのを観た記憶はこの時ただ1度きりである。後日そのライブ録音が発売されたのですぐに買い求め何度も何度も聴いたこと、録画した映像をそれこそテープが擦り切れるまで繰り返し観たことも懐かしい。当時中学3年生、高校受験を控えていた。受験直前に意を決し「クラシック断ち」をして受験に臨んだ。そのおかげか無事に合格して「クラシック解禁」の1枚目に選んだディスクが「ベルリンの壁解放コンサート」のC Dで、歓喜の合唱と共に1人、合格の歓びを噛み締めた。いつでも僕はバーンスタインと一緒だった。

ベルリンの壁解放コンサートの会場となった、ベルリン・コンツェルトハウス(旧・シャウシュピールハウス)の内部。写真はベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

カラヤン、ショルティ、カルロス・クライバーと並んでバーンスタインは僕にとっての「大スター」の1人だった。周りの同級生がロックバンドやアイドル歌手に熱狂している時、僕はバーンスタインに熱狂していたわけだが、1990年にロンドン交響楽団と来日するという情報を、当時定期購読していた「音楽の友」で知った。「生のバーンスタインを見たい!演奏を聴きたい!」と高校に入ったばかりの秋田の田舎の少年は考えた。親の協力もあって演奏会を聴きにいくことが決まりチケットを買い求めたのだが、その時点で東京公演のチケットは完売していた。しかし1990年から始まったバーンスタイン提唱の国際教育音楽祭「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(P M F)」とロンドン交響楽団との合同演奏会が開かれるという情報を得てチケット無事に手に入れることができた。その演奏会の会場は現在でも内外の大物アーティスト、人気アーティストがコンサートを開催する会場として有名な「横浜アリーナ」。横浜アリーナ、略称「横アリ」は収容人数が17000人という大型会場で、クラシックのオーケストラが演奏会を開催することは殆どない会場である。当時はバブル崩壊前夜で日本企業も景気が良い時代だったのだろう、クラシック音楽も日本武道館で開かれていた「グランド・オペラ」のシリーズなどをはじめ、大型会場でクラシックを演奏しても、多くの集客を得ることができる「足腰の強さ」があったのだろうか。大企業がスポンサーとなった、いわゆる「冠コンサート」がいろいろな意味で話題になっていたのもこの頃であった。ロンドン交響楽団の公演や僕が足を運んだ公演も大手の証券会社がスポンサーとなっていた。音響的にも視覚的にも満足とは言えない公演だったのかもしれないが、僕は「バーンスタインとロンドン交響楽団を生で見られる」高揚感でワクワクしていた。

横浜アリーナの外観


公演前日、僕は東京、箱崎のロイヤルパークホテルに泊まっていたことを覚えている。なぜ覚えているかというと、将棋の中原誠永世名人をホテルで見かけたからで、それと紐付けされて鮮明にホテル名を記憶しているのだが、公演当日の朝、部屋に届けられた新聞で「バーンスタイン、残りの公演をキャンセルして帰国」という記事を読み一気に「生バーンスタイン」体験は幻になってしまった。記事は一面の下の方だったか、社会面の目立つところだったは思い出せないが、大きな扱いの記事だった。その記事には「本日の公演はバーンスタインの代演として佐渡裕が指揮する」と書かれてあった。

佐渡裕という名前には見覚えがあった。「あぁ、去年ブザンソンのコンクールで優勝したデカい人だ」と。

せっかく東京に来たのだし、ロンドン交響楽団を聴けることには変わりない。当日は人気指揮者マイケル・ティルソン・トーマスも指揮するから・・・とバーンスタインに会えないガッカリ感を少しでもプラスに転じて演奏会を楽しもうと思いながら、新横浜の横浜アリーナに向かった。その時にどのような交通手段で新横浜まで行ったのか全く覚えていない。実は相当ガッカリしていたのかもしれない。会場の横浜アリーナは想像以上に広く、指定された席も2階席でオーケストラの舞台は遥か遠くに見えた。それでもその遠い舞台に世界を代表するオーケストラが登場するんだ!と思うと僕の気持ちはいつの間にか「期待」へと変わっていた。大きい会場であったため、大型のモニターテレビが舞台の上方にあったので、演奏者や指揮者の表情はとてもよく見ることができた。

演奏会がスタートした。まずはマイケル・ティルソン・トーマスが登場しワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲を演奏、スタイリッシュな指揮とオーケストラのサウンドに魅了された。その後P M Fのオーケストラでムソルグスキーの「展覧会の絵」が演奏された。指揮は若いアメリカ人指揮者だったが、名前は失念してしまった。とても有名な曲だし、僕も大好きなので演奏を十分に楽しむことができた。その次にロンドン交響楽団の演奏でバーンスタインの「ウエストサイド・ストーリー」から管弦楽曲として再構成された「シンフォニック・ダンス」を聴いた。指揮は大植英次マエストロ、佐渡さんと一緒にバーンスタインのアシスタントしていた方で、東京公演ではバーンスタインの代わりにこの作品を指揮していた指揮者である。大植さんを知ったのはP M Fのドキュメンタリー番組でバーンスタインが登場する前にオーケストラを「下振り」している姿で、子供心に緊張しながら指揮しているように見えたが、横浜アリーナの指揮台での大植さんはエネルギッシュで躍動感あふれる指揮姿、僕は一気に引き込まれた。ロンドン交響楽団の演奏も非常に良く、感激したのをよく覚えている。仙人のような髭をたくわえたトランペット奏者のカッコいいハイトーンにノックアウトされ、期待していたオーケストラメンバーの「マンボ!」の掛け声も聞けたので僕としては大満足だった。

そして最後に合同オーケストラで、チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」を演奏することになっていた。これは当初はバーンスタインが指揮する予定であった。この曲を佐渡さんが指揮することになったのである。

舞台に登場した佐渡さんは、僕の目には少し緊張しているように見えたが、それでも僕の第1印象は「やっぱりデカい人だな・・・」というものだった。お客さんの拍手もバーンスタイン降板の不安感と、佐渡さんへの期待と応援が混じったような拍手が響いていたような気がする。しかし、曲が始まったら佐渡さんの情熱的で想いに溢れた指揮にオーケストラが応えてとても素晴らしい演奏となった。最後の音が鳴り止んだ瞬間の万雷の拍手が全てを物語っていたと思う。一緒に演奏を聴いていた僕の母は「バーンスタインが見れず残念」と恨み節を言っていたが、僕はすっかり佐渡さんの情熱的な指揮姿、その音楽のファンとなっていた。この瞬間から佐渡さんが僕にとっての「アイドル」となった。もちろんバーンスタインも僕にとっては「永遠のスター」であることに変わりはなかった。

後年、バーンスタインが最後の日本公演で指揮台に立った渋谷のオーチャードホールで指揮をする機会を得た時には「この指揮台がバーンスタインが日本で最後に立った指揮台か!」と指揮台の絨毯に手を当てたことを思い出す。その指揮台でバーンスタインの真似をして飛び跳ねて指揮したことも若気の至りとして今では楽しい思い出となっている。その時指揮した曲はアメリカの作曲家モートン・グールドの作品であった。皮肉なことに彼はバーンスタインと因縁のある人物だ。グールドの音楽的才能を恐れたバーンスタインが彼の指揮活動を邪魔したのではないかという、事実かどうかはわからないエピソードがあるのだ。真偽は別にして同時代に生きた才能のある2人の作曲家のこぼれ話を知ったのは随分僕が年を取ってからのことである。またバーンスタインがP M Fの公演でシューマンの「交響曲第2番」の名演を指揮した札幌市民会館の指揮台に立った時もオーチャードホールの時と同じく指揮台のカーペットを触り、巨匠のオーラを感じた気になった。もちろんその指揮台でも跳んだ。今はもう札幌市民会館はないのだが、その日のコンサートの出来は長い演奏生活の中でも非常に良い出来で、バーンスタインのお陰であると勝手に思っている。ワルターの代役で指揮したシューマンの「交響曲第2番」、その曲を最後の日本公演、自らが晩年心血を注いだ教育音楽祭P M Fのコンサートで指揮をしたということに運命的なものを僕は感じている。始点と終点が一つの「線」となったようなエピソードである。

旧・札幌市民会館の外観


今年創立50周年を迎える新日本フィル。新年最初の定期公演を指揮するのは、オーケストラの新しい50年に向けて2023年にシェフとなる予定の佐渡裕マエストロだ。今度の演奏会では僕の永遠のスターであるバーンスタインの「シンフォニック・ダンス」を、永遠のアイドルである佐渡さんが指揮をする!僕はこの演奏会のみならず、マエストロと新日フィルの今後の「爆進」に大きな期待を持っている。「バーンスタイン直伝」の「シンフォニック・ダンス」、新日本フィルとバーンスタインの「深い縁」を感じながら演奏を楽しみたい。

当日は思い出の場所、横浜アリーナに程近い拙宅からコンサート会場に馳せ参ずるというのもまた「何かの縁」かもしれない。

(文・岡田友弘)

バーンスタイン直伝の「シンフォニック・ダンス」が体験できる演奏会!

第639回定期演奏会;トリフォニーシリーズ&サントリーシリーズ
2022年1月27日(木)19時開演 すみだトリフォニーホール(錦糸町)
2022年1月28日(金)19時開演 サントリーホール(溜池山王)
指揮:佐渡裕
独奏:西江辰郎(NJPコンサートマスター)
【プログラム】

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 「トルコ風」 K. 219

モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 「ジュピター」 K. 551

バーンスタイン:ウエスト・サイド・ストーリー 『シンフォニック・ダンス』
公演詳細、チケット購入は新日本フィル公式サイトで!

執筆者プロフィール

岡田友弘(おかだ・ともひろ)
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻入学。その後色々あって(留年とか・・・)桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンも多くいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。現在、吹奏楽・ブラスバンド・管打楽器の総合情報ウェブメディア ''Wind Band Press" にて、高校・大学で学生指揮をすることになってしまったビギナーズのための誌上レッス&講義コラム「スーパー学指揮への道」も連載中
岡田友弘・公式ホームページ
Twitter=@okajan2018new


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