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病院に行ったらよくないことを考えてしまった

先日、人生で初めて大学病院に行った。少し難しい歯の治療が必要となり、通っている歯医者で大学病院を紹介されたのだ。

大きな病院だった。受付には多くの人が溢れ、医療従事者と思われる方が往来している。これだけの人が医療を必要としているのかと軽く衝撃を受けた。

CTスキャンの控え室で順番を待っている時だった。1人のヨボヨボの老人が看護師さんを怒鳴っていた。予定時間にスキャンを受けられないことに納得がいかないようである。ただ、CTスキャンには様々な科から患者が集まっており、その時多くの人が並んでいた。待つことが必要であるのは自明だった。
失礼を承知で言うが、そんなに健康とは言えない老人であり、もう長生きするのは難しいだろうという容姿であった。それでも怒らないと気が済まないらしい。怒鳴られている看護師さんもあまりに不憫だった。

そこまでして生きたいのか。心の中でそう思ってしまった。その老人がどんな病気で病院に来ているのかは分からない。ただ、ここで怒鳴ってまで生にしがみつくのかと。

生きることは権利であり、誰しもに認められていることであることは百も承知である。

「そこまでして生きたいのか」という言葉を他人に向けることは批判される行為だろうし、多くの人に支持されるとは思ってない。命を軽んじているよくない考えであることも分かっている。

それでも、その老人を見てそう思ってしまった。

話は少し昔にさかのぼる。

私は中学生の頃に父親を亡くした。ある日、末期の癌が見つかり、治療をしたところで1年も持たないと診断された。その診断通り、まもなくしてこの世を去った。
しばらくして母親から、父は延命治療を選択しなかったという話を聞いた。完治することは出来ないが、薬を飲めば半年〜1年程度は延命できる方法が医師から提案されていたようだ。しかし、父はそれを選ばなかった。
理由を知る由もないが、父らしいなと思った。寡黙で知的でいかなる時も理性を忘れない人だった。ちょっとだけ長く生きたとて、いずれ死ぬのであれば延命に意味はないと感じたのだろうか。

ちなみにあと半年生きてたら、私が高校生になる姿を見れていたはずである。ただ、その姿を見るよりも延命治療をしたくない思いが勝ったのだろう。父にとって自分はその程度の存在だったのかもしれない。そこに未練はない。むしろ高校入学直後に亡くなるよりはマシだと今では思う。

そんな父の話が頭の中にあると、年老いてからも必死に生にすがる人を見ると、先述のよくないことを思ってしまうのである。

看護師さんを怒鳴っていた老人には子や孫がいるだろうし、長生きしたい理由は山ほどあるのだろう。それは無下にできないものであるし、病気になったほとんどの人は長生きを望むだろうなと思う。

仮に自分が80歳くらいになった時に病気に罹ったらどうするだろうか。その時に子や孫がいるのかは分からない。生きたい理由は別にあるかもしれない。ただ現時点では、父みたいに死という運命を受け入れると思う。延命治療は望まないだろう。別に父親をリスペクトしてる訳ではない。ただ、そこまでして生きたくはないと自分も思うような気がするのである。

病気になり死を感じることになったら怖いだろうなと思う。死を感じるからこそ生にしがみつくのかもしれない。ならばなぜ父はそうしなかったのだろうか。息子である私の高校入学はそんなに大きなイベントではなかったのだろうか。

病院に行くたびに父親のことを思い出してしまう。

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