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黄泉への道は退屈で舗装されている - 『Trek to Yomi』

時代劇や伝奇小説が描く和の世界には、普遍的な強い魅力がある。外国人のみならず、日本人もサムライとニンジャは大好きで、刀と手裏剣はいつの時代も最強兵器だ。それは厳密な時代考証や高いリアリティラインを必要としない、ある種の共通幻想である。

ゲームにおいてもそれは変わらない。例えば、『SEKIRO』の舞台である葦名の国は明らかに実際の戦国時代日本からかけ離れている。葦名城は小国の山城にしては造りが豪華すぎるし、マップの地理的な整合性はかなりぶっ飛んでいる。『Ghost of Tsushima』では現実の対馬の10倍くらいたくさんの温泉が湧き出ているし、甲冑の様式なども鎌倉時代のそれとは異なっている。けれど、各種エンタメの刷り込みのおかげで、我々はそれらを”和風”として受容し、楽しむことができる。言い換えれば、我々が”和風”と呼ぶものは多くの場合”時代劇風”であり、そこには常に拡張の余地があるのだ。

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現実の対馬には足湯がある

ポーランドはワルシャワに拠点を置くゲームスタジオ、Flying Wild Hogが開発した『Trek to Yomi』もまた、とても和風≒時代劇風なゲームだ。全編白黒、横長のシネマスコープ、画面を覆うざらついたフィルム粒子など、黒澤映画をそのままゲームにしてやろうという野心とリスペクトがひと目で感じられる。洋ゲーによくある”なんちゃって日本”などとは、口が裂けても言えないだろう。少なくとも、トレーラーを見る限りでは。

死に瀕する師への誓いとして、若き侍、大輝はあらゆる危険から自分の住む里と愛する人々を守ることを決意する。悲劇に直面し、務めを果たすとき、孤高の侍は生と死を越えた旅に出なくてはならない。自分自身と向き合い、歩むべき道を決めるために。

モノクロームに燃える情熱

このゲームで最も優れているのは、時代劇映画と日本文化への強烈なリスペクトだ。それは単純なビジュアルだけにとどまらず、日本語へのローカライズにまで徹底されている。俺の拙い言葉だけでは伝わらないので、ネタバレにならない程度にスクリーンショットを交えて説明しよう。

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上の画像はゲーム起動時のメニュー画面なのだが、この時点で情熱が迸っている。洋ゲーをあまりプレイしない人には分かりにくいかもしれないが、和の雰囲気を崩さない筆書き風フォントが選ばれている時点で及第点を大きく上回っているのだ。俺はこの時点で「オッ分かってんねえ」と思わずニコニコしてしまった。

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字幕のフォントも可読性と雰囲気をうまく両立しており、ローカライズ担当のセンスが光っている。『金堀』『間歩』といった往年の時代劇でも見ないような古風な言葉遣いも相まって、いい意味で洋ゲー離れした空気感が醸し出されている。また、主人公にして侍の大輝(この名前が戦国時代っぽいかは議論の余地があるが)のCVを務める加藤将之氏の演技も素晴らしく、忠義と情愛の狭間で煩悩する武士の人柄が伝わってくる。

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ちなみに、こちらはバグでたまたま英語字幕が表示されたシーンだ。ブラックレターなどいかにも古めかしい書体を使っているかと思いきや、案外さっぱりめのセリフ体となっている。英語話者ではない俺には推測するしかないが、これが劇中の雰囲気に与える悪影響は少ないのだろう。

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書体といえば、ロード中に表示される毛筆格言もこだわりポイントだ。このままPCの壁紙にしたいほど美しく、締まった印象を与えてくれる。だが残念なことに、これらの格言が本編で使われることは一切なく、ロード中のフレーバーテキスト以上のものにはならない。カットバックに用いるだけでも画的な効果を高められそうなものなのに、何故……。

多少理解に苦しむところもあるとはいえ、モノクロームを徹底的に生かした明暗の表現は一級品で、プレイ中のどの光景を切り取っても映画的な質感を損なわない。20年前ならいざしらず、この2022年に『映画のようなゲーム』とはなんともはや陳腐な比喩ではあるが、Trek to Yomiは間違いなくその形容に値する稀有な作品だ。

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地獄のような退屈さ

では、このゲームは果たして楽しいのか?断言してしまうが、答えは否だ。Trek to Yomiを遊んでいる時間の大部分は、ちょっとおかしいくらいにつまらない。レビュー記事でこんなことを書くのは極めて不本意だが、『早く終わってほしい』とさえ思いながらプレイしていたほどに、本作は退屈だ。なぜなら、前章で述べたところ以外――すなわち、画面を見てボタンを押して戦うという最もゲーム的な要素において、Trek to Yomiは完全に失敗してしまっているからだ。

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本作の戦闘システム自体はオーソドックスな部類だ。素早い弱攻撃、遅い強攻撃があり、それらの組み合わせでコンボができる。よろめいた敵に一撃必殺を決めるフィニッシャーや、ガードのタイミングをうまく合わせることで発動するカウンターなど、今風なアクションゲームを構成する要素は一通り揃っている。

だが、一つだけ致命的に欠けているものがある。それは”ヒットストップ”だ。攻撃が当たった瞬間に発生する、刹那の硬直。ヒットストップは、格ゲーからソウルライクに至るまで様々なアクションゲームにおける縁の下の力持ちだ。ヒットストップのおかげで攻撃が当たる感触が生まれ、コンボを繋げるか防御に切り替えるかといった数フレームの判断の手がかりとなる。また、ヒットストップの時間に長短を付けることで、その攻撃の重みやダメージの大小を直感的に伝えることもできる。多くのプレイヤーは意識することもないが、ヒットストップはアクションゲームの快適性を担保する最も重要な機能の一つなのだ。

しかし、Trek to Yomiにはヒットストップがほとんど存在しない。どのモーションで敵を斬っても(あるいは斬れていなくても)プレイヤーが感じる手触りは変わらない。大輝が刀を振るモーション自体はそれなりにリアルで重たいのに、斬った感触が豆腐よりも軽いため、アクションとしてまるで気持ちよくないのだ。

当然、先程述べた”手がかり”としても機能しないため、攻撃が当たっているか、コンボを続けるべきかといった判断の大部分はヒット時の効果音頼みになる。その結果、常に一手遅れるような戦闘を強いられてしまうのだ。できることならもちろん視覚もアテにしたいのだが、ここで”白黒”という本作のセールスポイントが裏目に出る。

そう、非常に見辛いのだ。ヒット確認ができるエフェクトといえばほんの僅かな流血描写くらいしかなく、それすら陰影の加減でほとんど分からなくなる。しかも、このゲームは場面によってカメラの引き具合が大きく変わるため、時には豆粒のように小さいキャラを操作しなければならないときもある。そうした状況は単純にひどく戦いづらいというだけでなく、ただでさえ爽快感の薄い戦闘をさらに虚無なものにしてしまっている。

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また、カウンターのタイミングもいまいち直感的でなく、ぬるりと吸い込むようにスローモーションになって敵の刃を弾くときもあれば、バッサリ斬られていることもある。「それカウンターできないのか……」と首をかしげた回数は両の手ではとても足りない。

付け加えると、振動機能のあるコントローラーではなくマウスとキーボードでプレイしたのも、この気持ちわるさを助長していたと思う。俺はMicrosoftが運営するゲームサブスクであるPC Game Passの格安期間中に本作を遊んでいたのだが、なんとこのサービスはPS4のコントローラーもPS5のコントローラーもサポートしていないのだ(Steamはほとんどフルサポートしているのに!)。ライバル会社の製品をあえてサポートする筋合いはないのでほとんど逆恨みではあるが、『そういうとこやぞMS』という気持ちはやはり拭えない。

戦闘面でフォローできる点があるとすれば、プレイヤーが同時に相手しなければいけない敵は多くても2、3人で、数の暴力に圧し潰されるストレスはそれほど感じなくて済むところだろうか。大勢の敵が殺意満々でやってきても、4人目以降は律儀に画面奥で待っていてくれる。これはちょっとシュールだが、アクションゲームにありがちな理不尽さを軽減してくれるありがたい仕様だ。かといって、それも戦闘の退屈さを和らげてはくれないが。

……総じて、本作の戦闘システムは不器用だ。

遠ざかる共通幻想

ゲームの核となる戦闘がつまらないとき、プレイのモチベーションを維持してくれるのはやはり物語の面白さだ。しかし、Trek to Yomiはそれについても成功しているとは言い難い。

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メガテニストも知らないキクリヒメ知識

このゲームはそのタイトルの通り、最序盤を過ぎたあとは大輝が黄泉を旅する話が中心となる。若干ネタバレになってしまうが、日本神話におけるイザナギの黄泉国巡りをなぞりつつ、己が真に求めるものは何かが問われていく。また、マップを探索して手に入るアーカイブではかなりマイナーな日本神話のネタも紹介されており、開発者にとって時代劇に並ぶ本作の要であることが見て取れる。白黒という点も含めて、名作横スクロール『LIMBO』の日本的な翻案ともいえるだろう。

しかしここで問題なのは、日本神話を取り扱う時代劇はほとんど存在しないという点だ。『陰陽師Ⅱ』(2003年)で天岩戸が描かれたというような例はあるにせよ、黄泉の国はどういうものかという明確な共通認識が我々の中にあるとは言い難い。このため、Trek to Yomiはその優れたアートセンスにも関わらず、冒頭で述べた”和風という名の共通幻想”からものすごい勢いで離れていくのだ。

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ちょっとだけ『返校』っぽくもある?

本作で描かれる黄泉でよく見られる光景として、上のスクリーンショットを挙げたい。墓石のような石碑に明朝体で『愛』『憎悪』と彫られているのだが、これは果たして和風なのだろうか。もしくは、黄泉っぽいのだろうか。少なくとも、俺には判断できない。なにしろ、原典である日本書紀には黄泉の国の具体的な描写はないのだから。そして、黄泉を描いた黒澤映画も、俺の知る限り存在しない。

もう一つ気になるのは、Trek to Yomiで描かれる日本人の信仰のあり方だ。民衆であれば神仏習合が基本だろうし、武士であれば禅宗でも学んでいそうなものだ。なのに、本作では仏教の影が薄すぎる。例えば、冒頭で町人がイザナギを例えに出すのだが、そのやりとりにはどうにも違和感が拭えなかった。現実の町人がそういう言い回しをしたかどうかは別として、耳覚えのなさが時代劇としてのリアリティを奪っていく。

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不穏に漂う違和感にとどめを刺すのが、黄泉で解くことになる謎の漢字パズルだ。フィールドに刻まれた漢字を見つけて順に揃えるというものなのだが、その漢字に全く意味を感じられないのだ。和風表現の一つとして考えても、日本語を知らないサーファーが腕に『浪人』とタトゥーしてしまうようなトンチキさを感じてしまう。

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本当にどういう意味なんですか……?

日本神話への強すぎるこだわりが裏目となり、このゲームの焦点はどうにもぼやけてしまっている。伝統的な時代劇を描くことに徹していれば、あるいは上手くいったかもしれない。『Seven Samurai: The Game』でもよかった。

畢竟、二兎を追う者は一兎をも得ずということだ。

俺はゲームをしたい

Trek to Yomiはおおよそ6時間足らずでクリアできる、短い作品だ。2,000円代のインディーゲームとしてはさほど珍しくないが、俺にとってこの時間は相当な苦難だった。理不尽に片足突っ込んだような高難易度なわけでもなければ、地雷を踏み抜かれるような描写があったわけでもない。ただ、アート以外の全てが、あまりにも退屈過ぎたからだ。羊頭狗肉などと言いたくはないが、ビジュアルが先行しすぎて遊びとしての快楽から遠ざかったゲームを遊ぶのはやはり辛いし、ゲームである必要性を感じない。黄泉への旅路を経て、俺は改めてそれを再確認することとなった。

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