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究極の冒険と壊れた黄金律 - 『ELDEN RING』

合計150時間ほどのプレイを終え、スタッフロールが流れるのを見ながら俺はコントローラーを置いた。素晴らしいゲームをクリアしたとき特有の、達成感と喪失感がないまぜになった奇妙な気持ちがする。狭間の地の冒険を通じて一つの答えを示せたことへの安堵のせいか、世界の命運を左右する大きな決断を下してしまった不安故か、思わずため息が出る。150時間もかけてまだ一周目にすぎない。だが、まずはよくやった。

結論から言おう。エルデンリングは比類ない傑作だ。歴史あるゲームアワードで初代ダークソウルがオールタイムベストゲームに選ばれているが、その玉座は遠からず奪われるだろう。なぜなら、デモンズソウルの発売から約10年、あるいは初代キングスフィールド以来20年以上に渡って続けてきたフロムソフトウェアの挑戦の集大成こそがエルデンリングであり、ごく大雑把に言ってしまえば、これまでのソウルシリーズ全ての上位互換といえるからだ。

既に多く語られていることではあるが、基本的なゲーム性においてエルデンリングはこれまでのソウルシリーズと特別異なることはしていない。プレイヤーがやることといえば、どうしようもなく壊れてしまった世界を探索し、数少ない情報で文脈を解釈し、強大な敵に挑むことだけだ。NPCと交流し取引するイベントはどれも興味深いが、他のRPGと比べてかなり少なく抑えられているし、クリアに必須なわけでもない。高品質かつ高難易度の探索戦闘、そしてそれらから得られる深い達成感こそがソウルシリーズのアイデンティティであるということに、もはや疑いの余地はないだろう。

だから、エルデンリングは決して奇をてらわなかった。取って付けたような新要素でプレイヤーの目を逸らすような小細工はしない。探索と戦闘のクオリティを維持しつつボリュームを増やすという、単純明快で、だからこそ本当に困難なやり方を選んだのだ。

※以下には、エルデンリングのネタバレが含まれる。読み進めても一向に構わないが、覚悟を決めることだ。

広さをご照覧あれ

第一に、エルデンリングでは過去作に比べてフィールドが圧倒的に広くなった。ゲームにおける”広さ”とは簡単に定義できるものではなく常に主観に左右されてしまうが、エルデンリングの舞台となる”狭間の地”はめまいがするほどに広く、大きく感じる。嵐が吹きすさぶ城、腐敗しきった朱の大地、星空が広がる神秘の地下都市……両手ではまるで足りないほど多様なロケーションがあり、どれも複雑に入り組み、手強い敵が待ち受けている。そこで得られる、幾度もの死を伴う濃密な体験こそが、単純な面積以上に世界を広く感じさせてくれる。

プレイヤーはいつもどおりの漠然としたプロローグの後、この残酷で美しい世界に放り出される。やるべきことをすぐに理解する必要はない。どこへ行くのも、何を探すのも、誰を殺すのも自由だ。そして、ゲーム側は必要最低限以上の情報は与えず、プレイヤーに何も押し付けない。それは自己決定という幸福を守るための、フロムなりの伝統的な美徳だ。

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世界の広さに応えるかのように、エルデンリングではついに地図を見る機能が実装された。これまでの作品においては、平面的な地図を通してゲーム世界を理解するとプレイ体験も平面化されてしまうという考えからマップ機能はあえて省かれていたのだが、今作ではもはやそんな心配は不要ということだろう。なにしろ、とてつもなく広いのは事実なのだから。

利便性を提供する一方で、プレイヤーが自力で地理を把握する楽しみを保つための細かな工夫もなされている。例えば、マップ自体は古風な絵地図に過ぎず、プレイヤーが実際にロケーションを訪れることで情報が追加されていくのは一見不便のようでいて、プレイヤーの能動的な探索を促してくれている。また、最初から全体マップを見ることはできず、地図断片を手に入れるか実際に足を運ぶことで次第にマップの縮尺が小さくなっていく点も、世界の大きさをすぐには悟らせないための秀逸な仕掛けだ。こうした思いやりのおかげでプレイヤーの冒険は矮小化されず、常に主体的であり続け、絶え間ない発見と驚きを楽しめるというわけだ。

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利便性という点でいうと、プレイヤーが乗ることができる霊馬、トレントも大きな役割を果たしている。直感的に操作できるように、トレントの動作に伴う慣性を省いたり、無視したいレベルの段差や傾斜はノーモーションで乗り越えたりといった入念な調整が行われているのだ。そのおかげで、ただ探索がストレスフリーになるだけでなく、多くのゲームで見栄えの割に操作が煩雑でつまらなくなりがちな騎馬戦が、十分に面白いものとなった。広大な湖を舞台にしたドラゴンとの大立ち回りなど明らかに騎馬戦を想定しているような状況も多く、普段と同じ操作感でありながらまるで異なるスケールの戦闘が可能となっている。

ちなみに、エルデンリングと同時期に発売された『HORIZON Forbidden West』における馬(に近い形の機械獣)の操作は、トレントと比べると相当に劣悪だった。動作の慣性が強すぎて、加速しようにも減速しようにも鬱陶しいディレイがつきまとう。また、障害物に関する判定が細かすぎるらしく、ちょっとした段差も飛び越えられず機械獣がまごつく場面も多々あった。雑木林などはもはや立ち入るべきですらない。結局、HORIZONのプレイ中に単純な移動以外で機械獣に乗ることはなく、人馬一体の騎馬戦ができる機会はついぞやって来なかった。機械獣に乗った時のビジュアルがイカしているだけに、これは残念な体験だった。

ロールプレイの時間だ

本作の全体的な戦闘システムもまた、ソウルシリーズを継承しつつ増量したものとなっている。武器の種類も数も、1周目のプレイでは遊びつくせないほど多い。大きく分厚く重く大雑把な特大剣で敵をまとめて薙ぎ払うこともできるし、魔術を駆使して敵に触れず殲滅することもできる。装備の多様さはロールプレイの幅を大きく広げると同時に、状況に応じた武器選びを楽しませてくれる。どの装備にも得手不得手がある一方で、プレイスキル次第で不得手を覆すことも決して不可能ではない。プレイヤーのわがままに最大限応えるバランス感覚は、やはりソウルシリーズ本家本元の貫禄といったところだろうか。

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ゲージを消費して強力な攻撃を放つ『戦技』はダークソウル3に引き続き登場しているが、今作では『戦灰』と呼ばれるアイテムを付け替えることで戦技を変えられるようになった。攻撃属性やステータス補正に関わる武器派生も同様に変更可能で、しかもこれらはノーコストで行える。本作は攻略の自由度が非常に高く、武器に何を必要とするかがTPOによって大きく変化することを考えると、これはより柔軟なゲームプレイを促すための合理的でユーザーフレンドリーな仕様だといえる。

ダークソウル3のときは戦技の性能がわりかし低く、個人的にはあってもなくても同じだと思っていた。しかし今作では戦技のダメージが向上し、通常技では怯まない相手を怯ませてゴリ押ししたりできるため、その存在感はかなり増している。リリース初期は明らかにブッ壊れ性能の戦技もあったが、現在はパッチでそれなりにいい塩梅になったと言えるだろう。その一方で、『致命の一撃』が名前の割にやたらと弱く、普通に殴るか戦技を使ったほうがよっぽどダメージを稼げるため、わざわざリスクを取ってパリィを狙う意義が薄くなっているのは考えものだ。とはいえ、これも今後の調整でどうとでもなるレベルだろう。

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この先(ずっと)、遺灰が有効だ

基本的には過去作を踏襲している戦闘システムの中で、目新しいものといえば『遺灰』だ。冒険を進めることで色々なNPCの遺灰が手に入り、プレイヤーはゲージを消費することでそのNPCを召喚し、共闘できる。つまり、一種のお助けキャラだ。普段は敵として戦うスケルトンや騎士が手助けしてくれるのは新鮮な感覚だし、強いと思っていたキャラの遺灰が予想を裏切ってあっさり倒されてしまうのも、それはそれで楽しいものだ。

とはいえ、この遺灰システムがエルデンリングの戦闘バランスに及ぼす影響については功罪相半ばといったところだ。

遺灰の良い点はもちろん、戦闘が楽になり、攻略の助けになることだ。多勢に無勢が基本の本作において、数的不利を緩和できるのはとてつもなくありがたい。しかも、遺灰は武器と同じように強化でき、最大まで強化するとプレイヤーが一撃で死ぬようなダメージにも平気で耐えるようになる。遺灰に敵の注意を向かせて背後から大技を叩き込む戦法は、単純だがこの上なく強力だ。

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特に、プレイヤーの装備をそっくり真似する遺灰『写し身の雫』は、ナーフされた今もなお、法外なまでに強い。プレイヤーと同じ能力を持つという時点でかなりヤバいのだが、スロットにアイテムを装備しておけば写し身がそのアイテムを使ってくれて、しかもプレイヤーの手元のアイテムは減らないというのが法外である所以だ。

俺がこの仕様に気付いたのは、”相手の攻撃を一発だけほぼノーダメージに抑える”薬をたまたま装備していた時のことだ。他の遺灰に比べて写し身がやたらとタフなのでよく観察してみると、戦闘中にこのアイテムを使って生き延びていたのだ。この薬の調合には貴重な素材が必要になるので俺自身が使うことは滅多になかったのだが、写し身なら大盤振る舞いしても懐が痛まないというわけだ。しかも、この薬は周囲の味方にも同じ効果を及ぼす。写し身の近くで戦えば薬の恩恵を受けられ、遠くで戦えば遺灰にターゲットが向き楽な立ち回りができるという隙のない布陣が、俺の意図しないところで完成していたのだった。

遺灰の良い点はその強さであるが、悪い点もまたその強さにある。先程は写し身の雫を例に出したが、実際はどの遺灰が強すぎるからナーフしろというのではない。『ターゲットを分散できる』『強化することで体力が非常に高くなる』という共通の性質が強すぎて、戦闘のメカニズムを歪ませてしまっているのだ。

これまでのフロム作品における戦闘(特に接近戦)は”相手の攻撃を読む→ガード/回避/パリィで対応する→相手の隙に反撃を入れる”というサイクルで構成されており、その精度を高めていくことが最終的な勝利に繋がっていた。このサイクルが素晴らしいのは、シンプル故に美しく、直感的で、フェアだからだ。プレイヤーに求められるのは相手の行動から学ぶことであり、勝敗は運否天賦による不可避の結末ではなく、学習と努力の答え合わせに他ならない。”正しく戦えば正しく勝てる”という黄金律こそがプレイヤーのモチベーションを維持し、勝利に達成感をもたらしてくれていた。

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しかし、遺灰によってこのサイクルと黄金律はあっさりと壊れ、プレイヤーが主体的に学ぶ必要性もまた、薄れてしまった。もはや相手のモーションを全て見切る必要はない。正面切って相手の攻撃に耐えるのは遺灰任せにし、自分は隙だらけの背後から殴って安全に勝つ。怯みやすい相手であれば、遺灰と一緒にラッシュを仕掛けることで押し切って勝つ。また、二正面作戦にアルゴリズムが混乱しきってしまうのか、時には敵が完全に動きを止めてしまうことさえあった。俺はよりによってラスボス戦でこれに出くわしてしまいそのままクリアしたのだが、その時の気まずさは今も尾を引いたままだ。

遺灰が完全に自律型でプレイヤーの意志を反映しないというのも悩ましい問題である。自らの勝利が努力と実力の賜物なのか、それともアルゴリズムがたまたま・・・・嚙み合った結果なのか、プレイヤーが判断できなくなり――自らの結果に責任を持てなくなるからだ。こうして、純粋だったはずの達成感は次第に不明瞭になっていく。ついでに言うと、坩堝の騎士や鈴玉狩りのような稀に現れる”とても強いが何故か遺灰を喚べない”類の敵と戦ったときに、己がいかに遺灰に依存していたかを改めて思い知らされるのもあまり気分がいいものではない。

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ちなみに、他プレイヤーを協力者として召喚したときはそれに伴ってボスの体力が強化されるが、遺灰召喚の場合はソロプレイ時の体力で据え置きという違いがある。また、協力者はステータスやアイテムに制限がかかるため、割と死にやすい。協力者のプレイヤースキルにも左右されるが、平均的なプレイヤーよりは最大強化した遺灰の方が頼もしいことのほうが多いだろう。

俺の主張に対して反論が出ることは容易に予想できる。つまり、『遺灰を使うな』という単純な縛りプレイの提案だ。エルデンリングはRPGであり、あらゆる手段についてそれを選ぶ自由と選ばない自由とが同時に与えられている。気に入らない勝ち方など、ハナから選ばなければよいのだと。この理屈はまったくもって正論だ。それは認めよう。

しかしながら、この正論を貫くにはエルデンリングのゲームデザイン自体が遺灰召喚を前提にしすぎているように思える。特に、終盤に現れるボスの苛烈さはシリーズでも類を見ないレベルで、とんでもない広範囲攻撃に複数ボスによるタコ殴り、反撃を許さない怒涛のラッシュ等々がごく当然に飛び交うようになる。長すぎる持続/大きすぎる判定によりまともに回避できず、スタミナを削り切られるため盾受けもできないような必殺の一撃を繰り返し目の当たりにすれば、プレイヤーの心が易きに流れていくのは無理からぬことだ。もちろん、時間をかけて正しく学べば正しく勝つことはできるに違いない。だが、勝てると分かっている手札を切らずに敗北するのは、ただ敗れ続けるよりもなお辛いものだ。こんなジレンマを、果たして良いゲーム体験と呼べるだろうか。

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エルデンリングの難易度曲線が破綻しているとは言わない。並のゲームよりずっと良く出来ているし、戦闘そのものはやはり抜群に楽しく感じられる。だが、従来作品――特にBloodborneとSEKIRO――の芸術的な難しさに比べると、かなり歪で異質なものになってしまっていることは否めない。

遺灰があれば妙にヌルく、なければ異様にマゾい。本当に欲しいのはちょうどその真ん中、頑張れば自力で勝てると分かっている敵・・・・・・・・・・・・・・・・・・に挑むことなのに。ゲーム側もプレイヤー側も、遺灰の大きすぎる影響力に振り回されているように見えて仕方がない。

傑作、おぉ傑作

……たかが遺灰のことで、こんな長ったらしく文句を書くつもりはなかった。というのも、このゲームをやっていて苦しいときや辛い場面はいくらでもあるが、退屈な瞬間はほんの一瞬もなかったからだ。遺灰があろうとなかろうと、その事実は何ひとつ変わらない。なにもかも面白いこのゲームで問題だと感じるのは遺灰とそれに関わるバランス調整だけであり、だからこそ、喉に刺さった小骨のように気になってしまったのかもしれない。

どうしてこんなに面白いのだろう。情けない話だが、俺にはこれを完全に言語化することはできない。エルデンリングを構成する個々の特徴は今や古典となり、さして珍しくもないはずだ。なのに、それらがフロムの手によって組み上げられたが最後、プレイヤーの生活を脅かすほどの恐ろしい中毒性を持ったゲームが出来上がる。とにかく完成度が高いのは間違いないのだが……それだけでは説明できない何かがある。まるで、秘伝の出汁のようだ。

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少し漠然とした話をしよう。もし人間という存在に共通の目的があるとしたら、それはきっと、冒険だ。無知への恐怖のせいか、未知への好奇心からか、我々は冒険し探究することをやめられない。だとすれば、エルデンリングが――その容赦ない難易度にも関わらず――発売1ヶ月を待たずして1200万本以上という異次元の出荷数を記録したのは道理だろう。このゲームはどこへ行っても興味深い未知が待ち受けており、制作陣はプレイヤーの好奇心を刺激し続けることについて一切の妥協をしなかったからだ。言うなれば、エルデンリングは冒険という概念・・・・・・・の最も秀逸な翻訳であり、それ故に、万人にとって普遍的な魅力を輝かせているのだ。

いちプレイヤーとして、エルデンリングを遊べたことを俺は本当に幸せに思う。これは、ゲーム史に残る掛け値なしの最高傑作マスターピースだ。


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