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電脳天使は過剰摂取の夢を見るか - 『NEEDY GIRL OVERDOSE』

彼女は未来の人間の姿だよ。けして潤うことの無い永遠の渇きの中、自分を肯定する意味を失う。できないことと一緒に、できることも失ったからだ

─『ギルティギア ストライブ』より、ハッピーケイオス

『NEEDY GIRL OVERDOSE』(以下NGOD)は1月にSteamで発売されたADVゲームだ。プレイヤーは『ピ』となり、『超絶最かわてんしちゃん』というハンドルネームでユーチューバードリームを目指す女の子『あめちゃん』を導く。基本的なゲームシステムは古き良きパラメータ調整型育成ADVであり、フォロワー数、好感度、やみ度、ストレスといったパラメータ次第でエンディングが分岐する。

※以下には、NEEDY GIRL OVERDOSEの完全なネタバレが含まれる。読み進めても一向に構わないが、覚悟を決めることだ。

多くのADVと同様に、NGODもまた、全エンディングの回収のためにはそこそこ周回しなければならない。見飽きた展開にウンザリするというのはADVの構造的問題だ。本作はゲーム内で30日間というタイムリミット中に複数のEDが回収でき、30日経過後は遡って任意の日からやり直せるため、ある程度はこの問題を緩和出来ている。とはいえ、20近いマルチエンドを全て回収するのは攻略を見た上でさえほとんど作業に近い行為だ。

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ブルスク上部の□がクリア済みルートを示している

パステルトーンの夢かわドット絵アニメーションは素晴らしく凝った作りになっており、ガバキックの効いたチップチューン調サウンドトラックはしっかり耳に残るが聴き疲れしない。これらの優れたビジュアルと音楽は間違いなくプレイのモチベーションとなっている。

その一方で、これは操作しているだけで面白いゲームというわけでもない。メッセンジャーであめちゃんとスタンプを投げ合う行為も5分で飽きるだろう。

NGODの面白さはそこではない。むしろ、現代のネット社会の化身として微に入り細を穿つ造形を施されたあめちゃんと、彼女の紡ぐストーリーにある。

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あめちゃんは精神的な幼さ、サブカルへの傾倒、インターネット/大衆/世界への迎合、反発、依存等々が錯綜した性格をしている。ゼロ年代から現在に至るまでのネットスラングを煮詰めたアクの塊のような混沌とした人物像は、俺を含む一定の年代層の人間にとっては危ういほどに理解できてしまう。

NGODでは、あめちゃんのストレスとやみ度を下げるためには薬物と性行為を過剰摂取するのが手っ取り早く、性描写と陰謀論を利用するととても楽にフォロワーを稼げる(どちらも過剰に過剰摂取すると固有エンドに到達する)。思わず苦笑いしそうなこの仕様は現代社会に忠実であると同時に、その現代社会が実際どれだけ病んだものかをあけすけに描いている。

自己破滅的な美少女が辿る(ほとんどの場合自己破滅的な)旅路は90年代からゼロ年代にかけてのオタク感覚の秀逸な現代語訳であり、それを眺めるのは確かにユニークな体験だった。それに、ミームやパロディでない部分を探す方が難しいほどのネタの詰め込み具合にゲラゲラ笑うのはとても楽しかった。

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格ゲーの趣味が硬派すぎる

だが、俺は段々と笑えなくなった。

プレイを重ねるにつれ、あめちゃんがキャラクターではなく、むしろマネキンに近いことに気付いたからだ。ある種の幻想を模った人型のハリボテ。サンプリングされた情報をコピーアンドペーストするだけの自動人形。

先ほども言ったように、俺を含む一定の世代にはあめちゃんの思考が手に取るように分かる。彼女の悩みも、苦しみも、喜びも。だが、ほんとうに一言一句ズレなく理解できてしまったら?……それはもはや、他者ではなくなる。他者理解というのは畢竟、既知と未知、事実と解釈が交じり合って初めて生まれるものだから。

あめちゃんの語る言葉も、プレイするゲームも、嫌悪する人間像も、全て自分事として理解できてしまった時、彼女は未知の領域や解釈の余地を持つヒトではなくなってしまう。ネットミームやサブカルに関する徹底的なパロディは大したものだが、キャラクターを生むという作業においてどこか致命的なエラーを引き起こしてしまっている。

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いじめられ、引きこもり、ネットに逃避し、桃源郷だったはずのそこでさえ充足を得られなかったあめちゃん。そのキャラ造形が薄っぺらいとは言わない。過去も経歴も伏線も十分に作り込まれているはずだ。しかし、自分の言葉で喋らないし喋れない彼女を、少なくとも俺は人間としては見られない。それはむしろ、”インターネット”という概念を捏ね上げて作られたグロテスクな食品サンプルだ。そして、サンプルからドラマは生まれない。ただ、事実なだけ。”リアリティ”と”リアル”を取り違えると、面白い/つまらないという土俵にすら立てないのだ。強いて言うなら……不気味の谷だ。

愚かで愛おしく憎らしいインターネットが戯画化され再生産され再消費される光景は、笑えるけれど虚しい。それはとりもなおさず、現在進行形で我々が暮らし苦しむ煉獄を俯瞰したつもりで自嘲しているだけだからだ。

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安価なハッピーエンドが欲しかったわけではないが、俺はやはり楽観主義者でありたい。今を彩るSNS社会やストリーマー文化にクソが山積みなのは動かせない事実だとしても、それを20年以上前のノスタルジア依存のニヒリズムで破滅させようとするのはノーフューチャーな自己憐憫に過ぎない。端的に言って、無責任だ。

若干余談にはなるが、NGODも大いに参考にしたであろうサイバーパンクバーテンダーADV『VA-11 Hall-A』のことをここで語らないではいられない。俺はほとんど執着的なまでにこのゲームを愛している。それは、主人公のジルを筆頭にどのキャラクターも”偏っている”し”分からない”からだ。

知っている/知らないこと、好きな/嫌いな人、どうでもいい/譲れないもの。誰もが不完全で、重層的で、相互(不)理解の余地がある。神の視点を持ったプレイヤーにすら、彼女らの人となりを全て理解することは許されない。だからこそ彼女らのやり取りには正しい重みがあり、それは時にすれ違い、そこにはドラマとリアリティがある。

ジルやドロシーの心の全てを俺は理解できない。だから、理解したくなる。その一方で、俺はあめちゃんのことは何でも理解ってしまう。だから、何も生まれない。

俺にとって、NEEDY GIRL OVERDOSEはVA-11 Hall-Aとは似て非なる無味の毒薬であり、自分自身気づいていなかった特大の地雷を踏まれてしまった気がする。ここまで記事を読んでくれたあなたにこのゲームをおすすめしないわけではないが、個人的には『もうやれないゲーム』棚行きだ。

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[Post Scriptum]

トゥルーエンドを含む本作のいくつかのルートは、第4の壁を超えるメタフィクショナルなものだ。ゲームの前提をひっくり返すような衝撃の展開に涙が止まらない……と言いたいところだが、個人的にはあまり感じ入るものではない。

伏線の張り方がだいぶ雑だというそもそもの問題もあるが、メタEDが複数存在することが最悪のミスである。メタ展開はただでさえ物語本来のドラマ性を薄めさせかねないのに、それが並立してしまうと現実と非現実、フィクションとメタフィクションの境目を語ること自体が全く無意味になるからだ。そうして結局、この肥溜めのような物質世界以外は全てフェイクであるという結論に辿り着いてしまう。そんなの、あまりにもお粗末だ。

第4の壁の超越、メタ展開、多元宇宙などは便利で強烈な作劇装置ではあるが、過剰摂取は創作を完全に無価値にしてしまう。それは、機械仕掛けの神ですら為しえない冒涜的な行いだ。

もちろんこれを面白がる人もいるだろうし、そうした人のことを俺は否定しない。けれど、彼/彼女にとって物語とは、ドラマとは、フィクションとは、そして何より、この現実とはいったい何なのだろうかと思わざるを得ない。

どんな娯楽も基本的には一過性のものだし、またそうあるべきだわ。始まりも終わりもなく、ただ観客を魅了したまま手放そうとしない映画なんて、それがどんなに素晴らしく思えたとしても、害にしかならない

─ 草薙素子

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