帝と藤原家を知ると古文がわかる…三条帝と道長と月の和歌
一昨日は旧暦九月十三日。十三夜でした。
後の月。
十五夜(旧暦八月十五日の月)と十三夜、片方しか見ないのは片月見といって、忌むべきこととされています。こちら都心では今年も両方見られました。
秋の冷気が心に沁みる晩秋の、真ん丸には少し足りない月を愛でていると、私は百人一首にも選ばれている、この歌、
を唱えたくなります。
〈意訳〉
ずっといたいなんて思わない、このつらい世に、もし生き長らえてしまったならば、きっと恋しく思うだろう。宮中で見上げている、今夜のこの美しい月を……。
三条天皇は「悲劇の天皇」と言われています。
ポイントは三つ。
①眼病に苦しむ
②藤原道長に再三譲位を迫られる
③内裏が二度も火事で焼ける
第六十七代・三条帝は眼病と脚気に苦しまれたようです。
第六十六代・一条帝の譲位にともなって、1011年、36歳で即位。
一条帝の中宮(正妻)は清少納言が仕えていた定子と、紫式部が仕えていた彰子。彰子は当時栄華をきわめていた藤原道長(当時、左大臣)の娘です。
序列は 太政大臣>左大臣>右大臣>内大臣
太政大臣は適任者がいなければ置かれません。ちなみに、
当時の政治は庶民のことなどほとんど考慮に入れていません。
道長は一条帝と彰子の子である敦成親王を早く天皇にしたい。
当時、子どもは母の実家で育ちますから、孫が天皇になれば、祖父の道長が権勢をふるえるのです。
そのため三条帝に、眼病や内裏焼失を理由にして、帝位を退くよう、たびたび圧をかけたようです。政務の補佐もしなかったとのこと。左大臣なのに。年齢は道長の方が10歳上です。
三条帝は即位後、わずか5年で譲位。出家。その翌年に崩御します。
いつまで内裏にいられるのか? いつまでこの目が見えるのか?
そう悩みながら詠まれたのかと思うと、上記の歌の切なさが胸にひしひしと迫ります。なにしろ、退位1か月ほど前の作というのですから。
第六十八代は後一条帝。道長の孫。道長の悲願成就です。
道長は三女の威子を後一条帝に嫁がせていましたが、立后(公式に皇后を立てること)して中宮となる宣命が下されます。道長の四女・妍子は三条帝に嫁がせていましたから、三人の娘が后の位についたわけです。
(次女の嬉子も第六十九代・後朱雀帝に嫁ぎましたが、中宮ではなく女御。
天皇の妻の序列は 皇后・中宮>女御>更衣 です。)
一家三立后という前代未聞の栄誉。
ここで詠まれたのが道長の歌として唯一有名な、これです。
〈意訳〉
この世は自分のためにあるんだな~と思う。あの満月に欠けたところがないように、自分の人生にも足りないものはもう何もないと思えば。
月を詠んだ歌を比べて、これほど対照的な二首はないのでは。
今日は満月。晩秋の名月が見られたら、二つの和歌を唱え比べてみたいです。
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