幸福のハードルが消えると常に生きてるだけでヨシ!になる。

私は27歳頃に人生に終止符を打つ予定だった。
「予定」としていたのは中学生頃から大学生の途中まで、10年弱の期間である。
妙な家庭環境で育ったため自己肯定感が異様に低く、常に社会全体vs私という構図を勝手に己が内に作り上げていた。
「どこへ行っても全員が私を疎ましく思っているはずだ」
「私がいても良い場所は存在しない」
という異常な思考の癖(もっとも、異常性に気付いたのは随分あとになってからだが)がデフォルトだったので、生きることが苦痛でしかなかった。
生活の中に幸せを感じる瞬間があっても、すぐに「この幸せもどうせすぐに消えてしまうのだ」と考えるネガティブな私が希死念慮に取り憑かれるのは自然な流れだった。
とりあえず27歳までには…という予定だったので、自分がそれ以上の年齢になった時の想像が全く出来なかった。


この記事では私の家庭環境を掘り下げるつもりはない。
それがこの記事を読んでくださる方のプラスになることは無いと判断しているからだ。プラスマイナスで上下をジャッジするつもりは無いけれど、今回の記事では話が脱線してしまう要素になり得るので割愛する。

33歳になった現在の私は、自死の予定を立てていたあの頃の自分からは想像もつかない考え方、価値観の人間になった。
過去の私が現在の私を見ても、他人の空似と思うかもしれない。
人はここまで変われる!という胡散臭い自己啓発本のようなキャッチコピーを、私自身が謳えてしまいそうなのだ。謳わないけど…。

私は今、一瞬一瞬がほとんど常に幸福に満ちており、幸福を感じるあまり涙を流すこともしばしばある。
具体的になにか嬉しい出来事が起こった訳でなくても、ただひたすら世界が愛おしく、尊く、自分という存在は壮大な生命の流れのさざなみの一つに過ぎないのだ…と思うと、それもまた目頭に来る。
存在しているだけでもう充分なのだ。
それはつまり、誰かの役に立てなくてもこの世に存在して良いということ。特別なものを得なくても幸福で在って良いということ。私は私の全てを赦して良いということ。
勝手にハードルを作り上げていたのは自分自身だった。
幸福に条件は無い。あるとすればそれは、私がいるだけで、私はもう幸福だと気付くということ。
また、幸福度と現状は関係無い。誰がどう見ても不幸の最中にあっても、不思議と幸福そうな人がたまにいる。幸福と感じるか否かは本人なのだ。現状が幸福であっても、その現状が条件付きの幸福のもと成り立っている場合、その条件を失うことへの恐れが根本にある。
こんな風に書くと「頭がイカれたのか?」と気味悪がられるだろうが、私の語彙力では"こんな風"以外にこの感覚を形容のしようが無いのである。

断りを入れておくと、宗教にハマった訳ではなく…
幸福というものは自分の内側に全て既にあったと腑に落ちただけ。この考え方自体がもう宗教っぽいと言われると、何も言えない。否定出来ない。
頭で理解するのは簡単だけど、腑に落ちる感覚が無ければそれは形だけのものである。
腑に落ちたのが今から数年前の話で、そこから自分の人生を歩んでいるのは自分自身なのであるという認識が生まれた。
他者に明け渡していた人生の手綱をようやく自分の手に取り戻したような感覚だった。
そりゃ生きてても楽しくないわな。自分の馬なのに自分で指令出来ない、どこへ行くのかも分からない状態だったのだから。

とにかく生きてりゃヨシ!になれた現在は、生きるのが随分と楽になった。
というか、認知の歪みが無い人は毎日こんなに心地良く過ごせるものなのか…と衝撃を受けるレベルである。
ただし認知が歪みまくり続けていた二十数年間があったから、私はこの「快感とも言える衝撃」を体感出来たのだ。
私に認知の歪みが無ければ得られなかった体感だろう。
そう思うと意味はあったと言えるのかもしれない。
物事全てに意味や意義を見出そうとする癖はあまりよろしくないけれど、今回はまあ意味はあったのだろうなと思う。

「ハイパーネガティブ陰キャ」だったのが「陰陽どちらでもない、或いはどちらでもある、楽観的な人」になったというお話でした。

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