ネチアクネス

30代。流れるように生きています。

ネチアクネス

30代。流れるように生きています。

マガジン

最近の記事

  • 固定された記事

何故文章を書くのか。

理由は人それぞれ。 私自身は、その一瞬一瞬の自分が何を考え、どのような価値観に基づいて生きていたのかを記録するのが目的となっている。 人は常に変化し、それは死ぬまで続く。 一ヶ月ほど前の自分なら、大体「そういえば、こんなことを考えてあんな行動取ったんだった」と思い出せる。 それが一年前にもなると、出来事や行動は思い出せても、自身の内面については断片的にしか思い出せなくなる。 数年経てばもうすっかり「別人」のような認識になる。 昔の自分はあんな行動を取った。 確かに私なら、

    • 幸福のハードルが消えると常に生きてるだけでヨシ!になる。

      私は27歳頃に人生に終止符を打つ予定だった。 「予定」としていたのは中学生頃から大学生の途中まで、10年弱の期間である。 妙な家庭環境で育ったため自己肯定感が異様に低く、常に社会全体vs私という構図を勝手に己が内に作り上げていた。 「どこへ行っても全員が私を疎ましく思っているはずだ」 「私がいても良い場所は存在しない」 という異常な思考の癖(もっとも、異常性に気付いたのは随分あとになってからだが)がデフォルトだったので、生きることが苦痛でしかなかった。 生活の中に幸せを感じる

      • 感謝されたあとに、生まれた目的が腑に落ちた。

        趣味で創作活動をしている。 絵を描いている瞬間と歌を歌っている瞬間、瞑想状態のようになる。 特別な感覚ではなく、おそらく多くの人が日常的に似たような感覚を覚えるはず。 集中することで諸々想念が消える。 その間、自身の内から発せられる波のような快感が増幅を繰り返す。 しかしながら興奮と共に深くリラックスもしているという、なんとも不思議で心地良い状態。 作業を終えた後の爽快感たるや…。 私の場合、それが絵と歌です。加えて、文章もちょこっと? 取り柄のない自分でも、それらに関して

        • 「人に優しく」は結果論。

          私は捻くれ者なので、「人に優しく」と言われても偽善的に感じられてどうにも苦手だ。 子どもの頃からそういったスローガンは薄寒いため嫌いだった。 「人に優しくしろ」と口で言う教師が、クラスの男の子の容姿を悪くイジるのを見た時、 学校のスローガンの大半と教師の何割かは何も立派では無いクソ未満の存在と感じたのを覚えている。 「人に優しく」出来る人は、当たり前に「自分に優しい」。 自分自身への愛情で自分を満たせている人は、小さな幸せに気付ける。 世界が小さな幸せに溢れていることに気付

        • 固定された記事

        何故文章を書くのか。

        マガジン

        • 暮らし
          9本
        • 心と身体
          6本
        • 昔の話
          1本
        • 社会の中の自分
          1本
        • ちょっと長めのお話っぽいもの
          1本

        記事

          もがくのを中断してリセットする。

          同時多発的に不具合が生じたり、どういう訳か不調から抜け出せない、延々と同じ渦の中でぐるぐる回り続けているような状態。 大したことではないのに振り回され続ける。 一体いつまでコレが続くんだ?と途方に暮れて…。 今がまさしくその時で、身も心も消耗の一途。 厄介なことに、一度渦に突入してしまうと自分では中々気付けない。 渦の内側にいる自覚も無いまま、あれよあれよという間に引き摺り込まれ、気付いた頃には海面は遥か遠く…ということも珍しくないのです。 自分の場合、大抵は人間関係の問

          もがくのを中断してリセットする。

          独り言のような文章だけ書いている。

          ここに何か書き残しておこうと思い立つ時は、大抵なにかしらの意識が大きくシフトチェンジする時だと感じている。 「これはシフトの予兆だな」とワクワクしながら文字を打つのではなく、後になって振り返ると、あれは予兆だったんだなと気付く。 人は、自らの足跡を軌跡として残したい生き物なんだろうか。 影響力のある人になりたいとか、生きた証を残したいとか、そういった類いの願望が私には無いから、 必然的に辿った足跡を振り返ることもあまりしない。 振り返ってもクッキリとした足跡が無いから、振り

          独り言のような文章だけ書いている。

          自分のために書く文章は癒しになる。

          読者を想定した記事は「誰かの役に立つ」。 私は役に立たない記事が好き。 自分自身もこうして役に立たない文章を書いている。 心の内に秘めていることを独りごちたような文章。 それは心が開けっ放しにされた、まるで出入り自由の個展。 それでいて言葉たちは、とてもじゃないけれど額縁に入れられた「作品」とも呼べない。 乱雑に並べられているだけ。 個展に見えて、実は散らかされた子供部屋なのかも? 自分のために書いた文章には、自分を癒す力がある。 他者から見れば単なる子供部屋のおもちゃで

          自分のために書く文章は癒しになる。

          ハードルは下げてナンボ。

          気付けば7ヶ月もの間、更新が止まっていた。 もう、noteの存在すら頭の中から消えていた。 記事の編集方法もよく覚えていない。改行とかどないなってます?これ。 もう4世代くらい旧型のnoteユーザー気分です。4世代がどんなもんかはテキトーな表現です。 今日は備忘録代わりに書く。 この7ヶ月の間に色々ありました。 引っ越しをして。スタエフに手を出し。 愛犬が病気で要介護になり。新しく猫を迎え入れ。 ヒーリングを学び。目覚め。意識の変容が続き…、 書き出すと淡々としているものの

          ハードルは下げてナンボ。

          虫恐怖症の人間がノイローゼになりながら攻防を繰り広げた話③完結編

          これらの続き。完結編です。 06.第二のコロニー発生源がキッチンの水屋のスライドレールの内部と判明したにも拘らず、今度はリビングでの出現数が増えて来たプチ虫(我が家での死番虫のあだ名)。 放置すれば、冬の足音が聴こえる頃には彼らの姿は見えなくなるはず。正直、第二のコロニーを突き止める勇気と気力はほとんど尽きていた。 しかしこのまま現実逃避を続けて良い訳が無い…。 さて、当時住んでいた家にはリビングにも小さなクロゼットがあった。 そこには普段必要ではないもの…工具箱やペッ

          虫恐怖症の人間がノイローゼになりながら攻防を繰り広げた話③完結編

          虫恐怖症の人間がノイローゼになりながら攻防を繰り広げた話②

          前noteはこちらです。 03.傾向と対策のセカンドシーズンあっという間に冬は過ぎ、春を迎えたのち……、 去年、プチ虫(我が家での死番虫のあだ名)達は5月末にウォーミングアップを開始したので覚悟していたところ、今年も全く同じタイミングで現れた。正確には5月25日辺り。 虫の概年リズムにはいつも感心する。 まるでカレンダーを確認しているかのよう。 覚悟はしていたものの現実で再会するとやはりげんなりしてしまう。 思えば去年は一年のうち半分をプチ虫討伐に勤しんだのだ。 今年も

          虫恐怖症の人間がノイローゼになりながら攻防を繰り広げた話②

          虫恐怖症の人間がノイローゼになりながら攻防を繰り広げた話①

          00.いつの間にか虫が無理になっていた私は虫が大の苦手である。 例としてカナブンやカメムシクラスの虫の場合、まず視界に入ると目で追い始める。動向が気になって仕方ない。 こちらに近付いて来れば呼吸が荒くなり、じんわりと汗も浮き出て、その場から離れようとする。この時点で半泣きになる。 そして万が一身体に触れようものなら、パニック状態になる。手荷物を投げ捨て、悲鳴を上げながら四肢をバタバタさせるようにして走る。四肢をバタバタさせることで虫が落ちるor飛んで行ってくれることを祈るの

          虫恐怖症の人間がノイローゼになりながら攻防を繰り広げた話①

          心の話。(4)インナーチャイルドとインナーペアレント

          心の中の抑圧が生きづらさに繋がっていることも少なくないので、少しずつ消して行きたいな〜という備忘録。 (4)は、抑圧があると気付いたあと、「子供のような願望」にまで掘り下げてみる…そんな内容。 4-1.インナーチャイルドとインナーペアレント抑圧の正体の多くは自分では直視したくないものと前述しました。 直視するのが嫌だから、素直な感情に蓋をしている訳ですね…。 なので、その素直な感情と向き合うことが抑圧の解消には必要。 これはちょっと苦しい作業。 何故なら、素直な感情と向き

          心の話。(4)インナーチャイルドとインナーペアレント

          bio欄を護符にするか呪いにするか。

          「軽く自己紹介してください」って難しい。 誰が聞いても不穏なムードが漂わず、踏み込み過ぎない内容。それなら名前と「よろしくお願いします」だけでも良い気がするが、そうはいかない空気感の時もある。 もうちょっと話してよ〜という空気が漂った際にさらっと付け加える一例、「犬が好きです」。 その一言には、 「(毎日甲高い声でカワイイデスネーと言いながら身体をこねくり回し耳の穴の匂いと肉球の匂いとワキの匂いの香ばしさを確認してお腹に顔を埋めつつ肉を吸ったり後頭部を唇でアグアグしたり

          bio欄を護符にするか呪いにするか。

          好きな場所から引っ越す。心を置いて行く。

          私は引っ越しが多い子供時代だった。 家庭の経済的事情からである。 以前記事にも書いたけれど、常に引っ越す可能性を考慮して家の中には段ボール箱が山積みで置かれていた。子供だった私も引っ越すことに慣れてしまい、思い出の品や雑貨、ぬいぐるみの類は全て捨てて、ある程度必要な物だけを厳選して部屋に置くようになった。卒アルなんかも引越しの際重いので捨てた。 そんな訳で、引っ越しを「晴れ晴れとした気持ちで新生活を迎えるための儀式」と感じたことが無かった。引っ越しは常に誰かから逃げる手段

          好きな場所から引っ越す。心を置いて行く。

          ジャンケンを克服したいwith『ファイト・クラブ』

           私はその場に「勝負」の香りが漂った途端、トンズラしたくなる。どうかその勝負に私を巻き込まないでくれ…と戦ってもいないうちから白旗を掲げ戦う意思が無いアピールをし、それでも挑まれたら一応臨むものの、勝ちを引き寄せる気概が無いのでほぼ負ける。  戦いたくない理由は簡単、怖いし面倒臭いのである。  解っている、そんな悠長なことを言ってられないような状況が人生には訪れるかもしれないと。守るべきもののために戦わなければいけない場面に遭遇するかもしれないと。漢には譲れぬ想いがある(

          ジャンケンを克服したいwith『ファイト・クラブ』

          心の話。(3)「しっくり来る」感覚

           (2)の補足…アドラー心理学の目的論の話を引き合いに出したのは、記事にも書いた通り「こう在れたら楽だろうな」と感じ、自分の中で目標の一つとして目指したい考え方だからです。  ですが、私はアドラー心理学の全てを違和感無く受け入れられる訳ではありません。参考に出来そうなところはする、くらいのゆるさです。  毎回冒頭と締め括りが反省?&補足っぽくなりそうです。  ぼちぼち書きます。 (※以下はあくまで一個人の考えであり、万人にとって「正しい」考えではありません) 3-1.自

          心の話。(3)「しっくり来る」感覚