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とにかく上京したかった 〜背伸びして タランティーノに はまったよ〜

当時、家にあった映画評論家の淀川長治さんの映画ランキング本(インターネットがなかったので、それしか参照するものがなかった)で、公開された年のベストワン映画として、クエンティンタランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」が選ばれていた。

売上のほとんどがアダルトビデオによるものだった疑いが高い、レンタルビデオ屋さんでは、海外の国際映画祭で受賞した作品がいくつか並んでいた。すでにタランティーノ監督による「パルプフィクション」をレンタルして見ていたのだが、「レザボア・ドッグス」が圧倒的に好きだった。とにかくタランティーノの作品は、衝撃的だった。ストーリーの展開も、キャラクターも、小粋な雑談が続く台詞も、今まで見たことがないような映画で、何か凄いものを見た、と思った。

特に「レザボア・ドッグス」は、暴力的な描写が多いのだが、それも物凄くスタイリッシュだと感じた。現在はとっくに閉館してしまったのだが、当時、タランティーノの映画を上映してくれる映画館が、駅から徒歩5分くらいのところにあり、公開初日に、高校の同級生と映画館で「フォー・ルームス」を見た。初日にもかかわらず、来場者は私と友人と、あと2人くらいで、ほとんど貸切状態だったように記憶している。地元の街は、当時から、JRの駅の周辺は、シャッター街になりつつあった。深夜の映画祭に行きたいと思ったが、父に「変な人がいるかもしれないからやめなさい」と止められた。その頃から、オールナイトの映画などを映画館で見ることが憧れになった(まぁ、東京で深夜の映画祭に女子高生が行っていたらそれこそますます危ない気もするが…)。

コロナが蔓延するずっと前から、コロナ禍を先取りしたかのような中心街の寂れ感。家と学校と、たまにジャスコ、駅の近くのロッテリア、くらいしか行ったことがない生活だったので、あまりよくわかっていなかったが、バブルがはじけた90年代後半には、既に街はどんどん衰退していたと思う。今はすっかり綺麗になって別の駅のような雰囲気になったのだが、中学生の頃、駅の北側は薄暗く、偽造テレホンカードを違法に売るイラン人だらけだった、という記憶もある。湾岸戦争の報道などの影響で、中東の国々は、アメリカに敵対する国として、誰もが極端な宗教の思想を持っているかのように誤解していたので、イランとイラクの区別もよくわからなかったのだが、イラン人といえば偽造テレホンカードを作っている、犯罪者予備軍だと思うような大いなる錯覚をしていた。

とにかく当時の自分としては、夜中に暴走族のエンジン音がけたたましく鳴り響き、痴漢だらけ、変質者だらけの街が嫌で嫌で仕方がなかった。女子高に通うようになると、同級生が露出狂を度々目撃したり、自分も自転車の隣を並走してくるおっさんから痴漢にあったりするようになった。

田房永子さんの著書において、東京都内に電車で通う女子校の人々は、電車内で痴漢に日常的に遭っていることを知って、ショックを受けたが、地方都市でも痴漢は日常的に存在した。教室では、たまに話題になったが、親や先生たちから痴漢に注意するよう言及されることはなく、「痴漢にあったことを話すとクラスでウケる」みたいな感じにのほほんと捉えていたので、危機意識が薄かった。街灯もあまりないようなところも自転車で走っていたので、制服を着ているせいか、狙われやすく、田舎の痴漢は本気で怖かったが、誰からも何の対策もするような指示はなかった。痴漢も変質者も、しっかりいたのに、「いなかったこと」のようにされていた。あの人たちは今も同じ場所で痴漢をし続けているとしか思えず、でもしっかりと性犯罪が存在していたのに誰からも何も言われず、笑って誤魔化していたことへの疑問と恐怖は今もある。

変質者や露出狂が日常的にいて、何も悪いことをしていないのになぜか暴走族に半殺しにされてしまった友人の同級生の話を聞いたりして、農薬がヘリコプターで撒かれる音が鳴り響く中で眠り、大量の羽アリが家に飛び込んでくるこんなところにはいたくないと強く思っていた。

狭い団地で勉強していた兄は、一浪したのちに東京の大学に進学。別人のようにイキイキと、さらにイキって、以前の「人志松本の滑らない話」において「ベストオブすべらない話」に選ばれた、小籔千豊氏による「スキーに行く車内でだんじりに乗っているかのように調子に乗っていた男性」よろしく、東京都内の大学生になったことのプライドにまみれ、選民思想の自意識によって作られた透明なお立ち台の上でガンガンに扇子を振り回して常に踊り狂っているような感じだった。兄は池袋の飲み屋でアルバイトを始め、夏はテニス、冬はスキーを行うというバブル真っ盛りのサークルに入り、その中で学生団体の長をつとめていたらしく、生活も意識も激変していたが、変わらず川沿いの団地に住み母のこだわりの緑茶を飲む我々を、猛烈に見下すようになってきているのを、言葉の端々から感じていた。夏休みなどに実家に帰ってきた際などには、喘息用の吸入器を吸いながら(兄は幼少期から喘息持ちだった)チラシの上で勉強していた時の姿とは別人のように、猛烈に楽しそうな姿を見せつけていた。イキった兄への違和感は強烈にあったが、親族の中で圧倒的な存在感を示し目の大きな兄に対し、コンプレックスがあった自分は、兄に追いつけ!追い越せ!という気持ちも相当に強かった。とにかく東京の大学に行かなければいけない、ここには何もない、と思い込むようにしていた。

地元の大学は、国立大学と私立大学、短大と数大学しかなく、大学を機に上京するという選択を許されている同級生は、実は、ほとんどいなかった。今となっては、地元の国立大学を出ていた方が絶対的な地元での信頼があり、何なら東京で就職活動をする場合においても、国立大学の方が業種によっては圧倒的に有利だったりもするのだと気がつくが、自分は親の影響で、とにかく東京の大学に行くべきだと思っていた。しかし地元では、教育費に莫大なお金をかけさせることの価値はそれほど重んじられておらず、そもそも学費だけでも高いのに、さらに仕送りなどが別途かかる東京の私立大学を卒業させることの価値があると思っている同級生は、マイノリティーだった。中には同じ学科がある東京の大学に合格しても、親から許可が降りず県内の大学に進学せざるを得ない、という友人もいた。

頓珍漢な教育熱心さをたたえていたものの、両親共に東京での生活をしたことがあった我が家では、「上京」という選択肢があったので、今になってみるとそのことは非常にありがたかった。しかし無理矢理受験勉強をさせられる中で、自分の中には、地元を見下す選民意識のようなものが強く強く芽生えていたと思う。多感な時期に、痴漢に遭いながら励まねばならない受験勉強はとても辛かったので、その選民意識によって自分を洗脳していたのだと今になって思う。

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