璦憑姫と渦蛇辜 1章災厄来りて③
タマは云えなかった。
「兄ィさ。おれ、畑にいって瓜を採ってくるから、今日一日ゆっくり寝てろ」
病み上がりの体でまだ漁には出られない海彦を残し、タマはうちを出た。
畑で手ごろな瓜を採った。いつもなら男の分にもう一つ採るが今日はそれができなかった。
-おれは知らね。
そのまままっすぐうちに戻る気にもなれず、岬の墓地に埋められたお婆に花を供えようと浜菊を摘んだ。墓地に着くと掘り返された土の匂いがし、真新しい小山がいくつもいくつもできていた。大勢死んだのだと分かった。踵をかえしタマはとぼとぼと歩いて暇を潰した。手の中で菊はしおれていった。
浜のほうに煙が上がっているのを見つけ、誰の仕業かと訝しがりながら近づけば、村の者たちが十数人タマのうちを取り囲んでいた。
「なんじゃ!うちが燃えとる!」
人垣をくぐりぬけたタマの目の前で、小屋はデイゴの木もろとも火に包まれていた。
「タマか」
漁師の次朗太が取り乱すタマをおさえた。
「なして?なしておれのうちが燃えとる?」
「村長さが………流行り病の源は火で清めろと」
そう云う次朗太の顔は仮面のように固まり、燃え盛る炎を凝視している。火をかけた村人の表情も一様に強張っていることにタマは気がついた。
「……兄ィさは?」
その時屋根が落ち、焔の向こうに黒い柱のようなものが立ち上がって崩れるのがみえた。
「兄ィさは中か!?」
「家から引きずり出して、火をつけたんだ。なのに、なのに海彦の馬鹿、なんでか火の中に戻りやがって……」
次朗太は火からもタマからも顔を背け目を伏せた。
「早く、早く火を消してや!兄ィさを助けてや」
村人の腕を、着物の裾をあらん限りの力でタマはひっぱたが、誰も動こうとはしなかった。
熱がちりちりとタマの背を焦がした。
「…あんな病が島に入ってこなけりゃ、俺の嫁も赤ん坊も死ぬことなかったでよぉ」
次朗太がつぶやいて苦しげに首をふった。
「いやじゃ!いやじゃ!」
半狂乱で泣き叫ぶタマを別の漁師がなだめようと肩をつかんだ。それを力の限り振り払って、なおも火を消せとタマは喚く。
「お前らは人殺しじゃ!」
見知った村人の顔が火の熱で一様に歪んで見えた。肌は赤くぬらついて白目が黄色く濁って見えた。
「鬼じゃ、お前ら鬼じゃ!」
そう言ったタマの心に、にわかに男の眼差しがうかんだ。
「鬼じゃ、……鬼の病じゃ、どうして、どうして…!兄ィさああ!」
タマの喉から獣の吠え声のような悲鳴があがった。
その時、虚空から滝のように水が湧きだし燃える小屋を打ち砕いた。雨雲の形はみえず、空は明るいままどこからともなく溢れた水に村人はどよめいた。
火が一瞬で消えるほどの水はなおも湧き出し、矢のように村人の頭上に降り注いだ。水は刃物のように着物を割き、肌を割いた。
「なんじゃ?」
「雨か?」
「こりゃ、潮水じゃ」
村人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
タマはぽつんと座り込んでいた。小屋のあった場所を囲むように炭になった柱の残骸などが円を描いて散らばっていた。デイゴの木だけが根を張った場所に真っ黒い姿で立ちつくしていた。
「兄ィさ」
呼んだが返事はない。
ひときわ大きな黒い柱に近寄れば、手足があってそれで人間だったとわかった。
「兄ィさ」
それはタマがよく知る海彦とは似ても似つかぬ姿だった。
「兄ィさ兄ィさ、タマだで、兄ィさ」
一刻かそれ以上か、タマはぼーっと兄の傍らにいた。
陽は落ちかけて、タマの影とデイゴ木の影が砂の上で炭と灰とに交わった。
タマは海彦の手の中に何かがあるのに気がついた。そっと触れると、青く光るものが砂に落ちた。
タマの子安貝と呼んでいた貝殻の破片だった。
海彦はこれを持ちだそうと火の中に飛び込んだ。小さな小屋だがそのぶん火の回りが早かった。煙に巻かれて出口がわからなくなったのだろう。タマは貝を拾い上げると、声を出さずに泣いた。
浜にそった家々から煙が立ち上っていた。夕餉の支度にしては盛大な煙だ。
波音に交じり人々の悲鳴や怒声が聞こえた。火事だった。同じように焼かれた家があったのかも知れない。海風で飛び火し、一度焚き付けられた烈火は村の全てを飲み込もうとしていた。
タマは立ち上がった。
湧水の山に登り、腰にさげた皮袋に真水をいっぱい入れた。見下ろすと夜のとばりが下りてもなお、見たことないほど村は明るく、そして火はただ美しかった。
そうしてタマがたどり着いたのは、男のねぐらとなっている海蝕洞窟だった。
「今日は祭りか?」
男が話かけてきたが、タマは首を振った。
「村が燃えた」
男は眉一つ動かさない。
「おれのうちも、兄ィさも燃えた」
「ほう」
「婆さはお前と同じ病で死んだ」
「俺は助かった」
タマは憎らしくなって男の脛をけりつけた。男はにやりと笑っただけだった。
「おれの兄ィさだって、病で死にはしなかった。浜の男は丈夫なんや。お前なんかより、漁も上手いし、それに優しい」
男はよくわからないと云いたげに顎をそらし、タマを見据えてゆっくりと云った。
「だが死んだ。弱いから死ぬのだ」
タマが何か云いかけた時、男はタマの手の中から貝殻片を抜き取った。
「これは、どうした?」
「兄ィさが火の中からとってきた。捨て子のおれと一緒にあったもんだ」
取り返そうと手を伸ばすタマの頭のはるか上で、男は矯めつ眇《すが》めつそれを見ていた。
「返せよっ、おれのだ、大事なんだぞっ」
「璦憑姫……か」
男が破片を裏返し、真珠質の面を示した。そこには髪の毛でひっかいたような細い文字が白く浮かんでいる。遊色にまぎれてうまく光をあてないと文字があることさえ気がつかない。
「お前、字が読めるのか?」
婆さも海彦も字が読めなかった。島で字が読めたのは村長さと交易に関わる数人の船乗りだけだった。
「お前の名か」
「おれはタマだ!お前こそ、名前くらい教えろよ」
「……渦蛇辜だ」
男―ワダツミはそのまま貝殻片をタマの腹に押し当てた。
「へ?」
タマが自分の臍へ視線を落とすと、それは仄かに発光しタマの着物をすり抜け躰の中へ吸い込こまれるように消えていった。
「おい、お前なにした?」
慌てたタマは着物の衿元を広げてのぞき込み、ないとわかると腹を手で押したり引いたりしたが貝殻片の姿も感触もなかった。
「返したぞ。それに、俺のことをお前と言うでない」
「……」
「何ともなかろう」
「……」
「必要になれば、それは姿を変えてお前を助けるだろう」
「……ワダツミって、何なんだよ?」
「お前がそれを知る必要はない。俺は今夜、島を発つ」
ワダツミの視線の先には小舟が完成していた。しかし、難破した時と同じで櫓も舵もない。
「馬鹿だな、こんなんで海を渡れるわけはない」
しかし、ワダツミが船に足をかけると岩場を越えて波が押し寄せ、彼が手を触れることなく着水した。
「世話になった」
そのまま背を向けるワダツミをタマは呼び止めた。
「うちがない。家族は死んだ」
ワダツミはふりかえり「それで」と云った。
「村も燃えた。行くところがない」
「それは先ほど聞いたが」
「どこに帰ればええか?」
「何をつまらんことを。魚の子は海に還れ」
ワダツミは揶揄いまじりに笑うと、親の顔など知らねど人も魚も育つぞと呟きながら船に荷を積んだ。
「……ひとりはいやじゃ。お前のことを黙っていた。黙っていたら村中が病になった…お前、鬼なんじゃろ?鬼の病を運んだおれも、鬼になってしまうんか?いや、村の人らが鬼なんか?顔が違うもん、あいつら兄ィを焼いたんだもん。もう何処にもいられん」
「くだらんな」
タマは堪え切れなくなって泣き出した。
「タマヨリ」
と彼は云った。
「俺は鬼ではない。だが人でもない。……お前もそうだろう」
タマは顔を上げた。
「どこでもいい、おれもつれて行ってくれ」
「なぜ」
「…ひとりは、」と言いかけたのをワダツミは一瞥で黙らせた。
「………親を、探す」
「………」
「おれの名前……えっと」
「璦憑」
「そう、それを名付けてくれた人を探す。たぶん、おれの親だ。生きているなら、会いたい」
ワダツミは思案気に目を閉じた。
「海の魚に聞いてまわるか?」
揶揄い調子は変わらないが、いままでにない不思議と柔和な笑みが目の奥に広がった。
「行って、いんだな」
「面倒をかけたら捨てる」
タマは水を蹴って船に飛び乗った。
タマヨリとワダツミを乗せた船は、赤い月のかかる夜に音もなく滑りだした。
一章 おわり
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