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璦憑姫と渦蛇辜 10章「凪女」①

 夜明けを待たずに出立したタマヨリの心にぽっと浮かぶのは、後にしてきた遥か南の故郷だった。
それから亜呼と過ごしたやしろ、海賊島、ワダツミと渡り歩いた島々……。
どこに行けばいいのかいつだって分からなかったが、いてはいけない場所は分かる。
ーおれは鬼なんだろうか?
人の群れから、いつ逸れてしまったのだろう。島が燃えた時か、鬼の子だと後ろ指さされた時か、『いさら』を解いたときか。
左腕の鱗が鴉雀あじゃくの怯えた声を思い出させた。
 ーおれに会わなければ鴉雀あじゃくも盲いることなどなかったのに。
後悔は背中からやってくる。だったら追いつかれないように、前に踏み出すしかない。戻れないのなら先へ。先へ行くしかなかろう、とタマヨリの足は歩む。
  
   『いさら』は凪いでいた。
もう港街に戻るつもりのないタマヨリは、草木の茂った菟道とどうの道なき道を歩いていた。菟道の先端、その先の海。タマヨリは海を目指していたのかも知れない。
 夜が空けても林全体が放つよそよそしさは消えない。木々は海風で傾き、それに藤の捻れた太い蔓が締め上げるように巻きついていた。倒木も多く笹藪は迂回しなければ進めなかった。
 疲労を覚えた。 海賊島を出る時、持たせてくれた荷物は何一つなかった。昂ぶるままに出てきてしまったが、ずいぶん軽はずみだったと気がついた。アビがくれたどんぐりの首飾りだけが揺れている。
清水でも湧いていないか耳を澄まし、感覚を研いだが見つからない。仕方なくその場にしゃがんで少し休むことにした。

 うつらうつらとしてしまったのか。はたと目を覚ますと辺りはぼんやり霧がかかっていた。その霧の向こうに何かがいる気配がする。人かも知れないという期待と化け物かも知れないという緊張が、ないまぜになってタマヨリは目を凝らした。
 黄檗色きはだの衣が霧を払い、現れたのは女だった。
 高く結った髪、白く柔らか頬、目元の涼しい高貴な面立ちだった。衣は脚を覆うほど長く裾ひき、乳白色の帯の垂れ具合も優美だった。
タマヨリは見惚れた。
その有様は海彦と婆さから幾度となく聞いた、赤子のタマを抱いて浜に現れた美しい女を思い起こさせた。まるで自分の目で見たように浮かぶ情景に、その人の姿はぴたりと重なった。
お母おっかあさ…………。
それが喉元まで出かかったまま女を凝視した。目を離したら消えてしまうかも知れないと恐れるように。

 女はタマヨリの前に進み出ると腰を折った。生まれてこの方、これほど優しい目で見られたことがあっただろうか。タマヨリの頬は紅潮した。
璦憑姫たまよりひめさまですね」
女の声は細く、微かに震えていた。
「………そうだ、タマヨリだ」
「私は凪女なぎめと申します。貴女のお母様の侍女をしております」
「………お母、さま? 」
「はい」
「おれに、お母さがおるんだな」
凪女ではなく母は別にいるのだと言いかったが、動転して言い方を誤る。
「ええ。ええ。みえますとも」
凪女の声は細いがもう震えてはいない。通りのよい柔らかな声音で肯なった。
「おれは、おれは……、ずっと会いたかったんだ。お母さ。お母さ。おれ、お母さに会いたい! 」
「随分長く、旅してらしたのですね。凪はお迎えに参りました」
「じゃあ、…会える? 」
「もちろんですよ。さあ、参りましょう。水底の乙様のお屋敷へ」


 



つづく


前回はこちら↓

異界に落ちたタマヨリとアビと鴉雀。深海の兇徒に追いつめられ、鴉雀は目を射られ、タマヨリは再び『いさら』を呼ぶ。目が見えなくなった鴉雀が触れた少女の腕は鱗に覆われていた。彼のために唄えば、海から死者の魂があがってくる。自身の力と宿業に気付きながらタマヨリはひとり篦藻岩を後にした。




   




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