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璦憑姫と渦蛇辜 14章「肚竭穢土に吹く風」①

 広くならされた道を進めば石塀で囲まれた屋敷についた。
港の集落のどの家よりも群を抜いて大きい。荘厳さなら乙姫の屋敷も負けはしないが、明るい陽光の下にそびえる御殿は寿ことほぎに溢れていた。
祝い事の前のように人々のさざめきにも華やぎがある。屋敷の女中たちの衣の裾は歌うようにひるがえり、衛士が牽く馬には装飾が施されていた。
それは栄華の都肚竭穢土ハラツェドでは日常なのだが、タマヨリには特別なしつらえに見えた。

「では我々の役目はここまでだから」

「くれぐれも無礼を働くでないぞ、娘」

眼前の景色にぼーとなっているタマヨリを屋敷の者に引き渡すと、手長彦と足長彦は来た道を戻っていった。
長いきざはしの先の部屋に通されたタマヨリは一人で待つことになった。待てど暮らせど誰もやってこない部屋で退屈しかけた頃、巾着からヤドカリ姿の磯螺いそらが這い出した。

「ふううむ、ここが肚竭穢土の中枢なるか」

「ねえ磯螺。竜宮もこれくらい良い場所なの? 」

「ほっおほっおほお、竜宮はこの百倍も良いわ」

「百倍………想像もつかん」

と唸りつつ磯螺を手の平にのせた。

「ねえ、磯螺がここにいても海で起きていることは分かるの? 」

「無論。わしの目はいついかなる時も海の全ての命に宿るのじゃ。ああ、ただし」

と鋏をせわしなく動かしてみせた。

「わしの目を逸らす巫術を使う者もおる。それ、おぬしの肉の母じゃ」

「磯螺は何でも知ってるんだね。じゃあ、あの予言も知ってる?……あの、母なるものを殺し…………」

「誰と話しているのだい」

背後から急に声をかけられ、タマヨリはびくりとなった。

「お、驚かすなよ」

振り向けば豊かな黒髪を左右で束ねて結い上げた若者がいる。この国ではよく目にする髪型だが、服は真新しく装飾品はひときわ煌びやかだった。

「驚かすつもりはなかった。で、誰と話しておった? 」

青年がずかずか近寄ってきたので、タマヨリは仕方なしにヤドカリを差し出した。

「こ、これ、と……」

「ははははっは」

青年は声も高らかに笑うと「まあよい」と云いいにこやかに続けた。

「私を助けてくれたのは、そなたであろう。名をなんと申す」

「ああ、お前が岐勿鹿きなじかか! 」

若者は漂流していた時と打って変わって、張り艶のよい肌と堂々たる物腰で立っていた。タマヨリは満足気にその姿を上から下まで眺めると、

「良かった!元気そうでなによりじゃな! 」

とひとりでうなづいた。

「ああ、お陰でな。で、名は? 」

そこではっと気がついたようにタマヨリは片膝をついて、優美な仕草で衣を摘んでみせると、

「璦憑姫にございます」

凪女なぎめ仕込みの行儀作法で恭しく首をたれてみせた。
黒髪が肩から流れるように滑り落ち、衣を摘む爪は桜貝のようだった。
岐勿鹿は狐につままれたような顔になった。今し方まで皇子である己に無作法に喋っていたのは別人で、天女が目の前に現れたかにみえた。
ゆっくりと上げられたおもてを見れば、真珠の艶の頬と切り揃えた前髪の下から黒曜石の双眸がのぞいた。
小波さざなみ立つ心内を鎮めてから岐勿鹿は、

「そ、そうか。タマヨリヒメと申すか」

と云った。

「タマでいいぞ」

「え」

「いやあ、あの時はもう助からねえんじゃないかと思わんでもなかったが。嬉しいぞ! 」

タマヨリはすぐにいつもの口調に戻るとにっこりと笑った。

「うむ。それで私からそなたに褒美を取らせたい。望みのものを云ってみよ」

岐勿鹿の申し出にタマヨリは手をひらひらさせながら、

「いやいいよ、褒美なんて。あれはおれがしたくてしたことだ。どちらかというと、おれのためにした。おれに関わる人間は死ぬばかりじゃない、傷つくばかりじゃないって、そう思いたかったんだ。それでお前が生きてくれた。もう十分じゃ」

と答えた。岐勿鹿は額に手をやると暫し難しい顔になった。それから部屋の外で控えていた従者に声をかけた。

「聞いたか、淤緑耳おみじなんと健気な娘であろう」

従者の淤緑耳が「はは」と諾う声が聞こえた。

「なおのこと褒美を取らせたい。そうじゃ、屋敷を案内してやろう。それで気に入ったものをなんなりと取らせる。それでよいな」

自分の思いつきに上機嫌になりながら岐勿鹿は云った。この豪奢な屋敷の中を見て回れることに興味を引かれたタマヨリは「ああ」とうなづいた。
早速、淤緑耳が案内に立とうとするのを岐勿鹿は制し、自らが案内すると告げた。

「私の命の恩人だぞ。さ、タマヨリヒメこちらへ」

と先に立って歩き始めた。
屋敷は岐勿鹿の家族、つまり肚竭穢土の王の一族が暮らす家屋と、執務用の家屋とに分かれていた。部屋の入り口には垂れ布がなびき、縫い取られたまじない印が複雑で美しい紋様をなしていた。他にも厩があり、穀物庫があり、庭の一角では珍しい花が育てられている。どの場所でも皆が丁寧に頭を下げる前を行き過ぎ、広い屋敷を一周した。

「父王は今、港の方へ行ってしまってな。そなたには存分な礼をせよと口を酸っぱくして仰っていたのだが。とにかく仕事が好きなのだ。この国は昔から地理的に交易の拠点となっていたが、今の繁栄を築いたのは父と先王なのだよ」

「ああ、驚くことばかりだ。目ん玉がたまげすぎて、まろび出そうじゃ」

「それは大変だ。そのような美しい目の玉、玉髄をもって代えにならぬ」

「え、じゃあ押さえとこ。でもそうしたら何も見えん」

「はははは。ではまろび出そうになったら、私が押し戻そう」

そんなやり取りをしながら、先に立って歩いていた岐勿鹿はタマヨリの横に並んだ。

「岐勿鹿、お前なんかとてもいい香りがするなぁ」

とタマヨリは鼻をくんくんさせた。

「ああ。衣に香木の煙を焚きしめてあるのだ。この辺りでは採れぬ、船に乗ってやってきた南方の香木だ。この匂いは虫もはらうし、悪いものも寄せつけぬ」

「へえええ。今度は鼻がたまげとる」

「気に入ったのなら香木をやろうか」

「おお、それはいい。そうしたら………」

と云いかけてタマヨリは自分の考えていることに驚いた。
その香木を母親に届けたら喜んでくれるのではないか。義兄弟達が貢ぎ物をして母の感心をかっていたように、自分も褒められるのではないか。少なくとも義兄弟と同等の扱いをしてもらえるのではないか。
淡い期待と共に胸に差し込んだその考えに、しかしそっと蓋をした。
凪女の最期を想えば、母親が自分を許すことなど到底有り得ないのだ。
なのに、なぜそのような都合の良い期待を寄せてしまうのか。

「いやあ、やっぱりいいよ」

タマヨリは申し訳なさそうに云ったが、納得いかない顔で岐勿鹿は聞いた。

「なぜだ?タマヨリの欲するものは他にあるのか? 」

「ああ………。あると云えばあるし、ないと云えばないんじゃな」

「なに。遠慮なく申してみよ」

「……おれは捨て子じゃったから親を探しとった。それで母親には会えたが、おれは全く母の災いだった」

口を開いたはいいが、思うように喋れず口篭るタマヨリを岐勿鹿は辛抱強く待った。

「まずもって、お婆さと兄ぃさが死んだことが発端じゃが。ええっとな、おれには分たれた半身がおって、それも兄と云えるかもしれないが、………それが母の夫になった。なんだかおれは、自分の半分を人質に取られたようなでも羨ましいような変な心持ちがして。血が繋がっておっても一緒に暮らすことがまかり通らん。
おれはな、ただ仕合わせになりたいだけで、あっちの島からこっちの島へ渡り歩いてきた。でも何処にも帰ることができん。よく分からない話かも知れんが、欲しいものと云われて………そんなことを、思うような思わんような………」

話が尻すぼみになって途切れたとこで岐勿鹿は、

「ああよく分からない話だ」と盛大に相槌を打った。

「よくわからない話だが、タマヨリの希みは分かった」

と太陽のような笑顔を向けた。

「そなたを私の妃にしてしんぜよう! 」

「ほへ? 」




続く












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