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璦憑姫と渦蛇辜 5章「いさら」③

  タマヨリが宮中を出ていく時、来た時と同じように雨が降っていた。門柱のところにろうが一人で立っているのも同じだ。ただ来た時は、広い庭の奥からすぐに阿呼あこがタマヨリを見つけ、にっこりと微笑んだのだ。揃いの着物に着替えたタマヨリの手をひいて宮中の案内をしたのも阿呼だった。
 「阿呼は……」
 ひとり門柱を抜けかけたところで、タマヨリは浪に聞いた。
 「阿呼さまはもうお会いにならない」
 「……そっか」
 「浜まで行けば、夷去火いさりびが迎えに来ている。行けるな?」
 「ああ」
 もう一目だけ、そんな思いでタマヨリは振り返ったが、雨にけぶるやしろは押し黙ってその奥に阿呼の姿を隠していた。
 阿呼は憔悴し怯えていた。自分が口にした言葉も、タマヨリとふたりで開けてしまった『水鏡』に何が映ったのかも覚えていなかった。通常の卜いうらないの域を超えたむくいは、全て彼女の身に降りかかった。目が覚めた巫女に残ったのは、云い知れぬ恐怖と汚辱の黒い感覚だけだった。
 チガヤに支えられ社の外に出た時、胸のうちの黒い感覚が目の前で像を結んだ。
 血と死と、その中央に立つ禍々しい力の権化。
 どれだけ事情を聞かされても、儀仗を手に立ち尽くすタマヨリの姿が怖ろしいものとして思い出される。それだけで震えと悪寒は止まらず、彼女が近づくことも拒んだ。
 そうなっては宮中に置いておくこともできず、海賊の元へ返させることとなった。
 持ち物といっては腹から出てきたくだんの儀仗と、弁当だけだった。布で覆われた刀剣は娘が持ち歩くには大きすぎる。
「誰かに運ばせようか?」
 浪が気遣ったがタマヨリは首を降った。
「おれのだから。おれが持っていく。それより」
 とタマヨリは浪の額から垂れる雨水をはらった。
 「あんま濡れると阿呼が心配する」
 「……屋根がある」
 と彼は申し訳程度に張り出した軒の下へ躰をずらした。
 「阿呼は寝ても覚めても浪のことばかりだったから、今もきっとお前のことを考えている」
 戯れに卜いをするからよこしまなものを引き寄せたのだ。神託を預かる巫女として軽はずみだったと、コトウをはじめ宮中の者は咎めた。しかし彼女らに国の命運と愛しい者との明日にどれほど違いがあっただろう。
 「禁をおかした。しかしお前は阿呼さまを守ったのも事実」
 タマヨリはこくりとうなづいた。
 「にわかに信じがたいことだが……。押し入った肚竭穢土ハラツェドの兵を軒並み倒した。人の域を超えた力だ。お頭やワダツミと類を同じくする……のだろうが、陸に海の力を引き寄せた。それは心のままに揮えば人の営みの全てを断つほどの力だ。それは二度と使ってはいけない。さもなくばタマヨリ、身を滅ぼすぞ」
 「わかった。戻ったら剣は岩石島の隠し穴にしまっておく。もうさわらない」
 「戻ったら、おまえは……」
 云いかけて浪は口をつぐんだ。どうするかは礁玉が決めるだろう。彼女が恐れていたようにタマヨリの中でタマヨリ自身の知らぬものが目覚めた。今を逃しては厄災を野に放つことになるかもしれない。しかし浪の目に映るのは何も知らない、あどけなさの残った娘なのだ。
 「じゃあ、行くな」
 去りかけると、雨の中手をかざして走ってくる女の姿があった。
 「タマヨリ、待ちなさい!」
 「チガヤじゃねえか、見送りか」
 チガヤは浪に一礼すると、
 「阿呼さまからことづてがあります」
 と云ったので、タマヨリの顔がぱっと明るくなった。
 「阿呼は、阿呼はもう起きられるのか?めしは喰っとるか?」
 「いえ、まだ臥所ふしどからはお出になられず、お食事もほとんどお手をつけられません」
 「ああ」
 「それでもあなたに、」
と云って浪をちらりとみた。云い辛いのは不承の卜いのことに触れるからだ。浪は聞かぬふりをきめた。
 「何も覚えてないとおっしゃっていますが、『生きている』と伝えてほしいと」
 「生きている?」
 タマヨリははっとした。親のことも視てほしいと頼んだではないか。生きているとはつまり……。
 「おれのお父さかお母さか、もしくは両方が生きているってことだな!」
 事情をしらないチガヤは「そこまでは」と云うしかなかったが、喜びを隠さないタマヨリに、
 「それから、『仕合せになって』と仰せでしたよ」
と告げた。
 タマヨリは急に静かになって顔を伏せた。
 阿呼の言葉を忘れないように阿呼の顔を忘れないように、何度も心の中で阿呼に唱えさせた。
 ―仕合せになって。仕合せになってねタマ……
「なんてこたないさ。おれは仕合せになるさあ」
 そう云うと、浪とチガヤに別れを告げて彼女は雨の中を進んでいった。
 ―おれのお父さとお母さ、いったいどこにおるのやら……。
 そんなことを考えながら歩くタマヨリの耳に波音が響いた。海はまだ先だ。
 立ち止まり耳をすませた。雨音に重なる波音はやはり空耳ではない。音は『いさら』を伝ってくる。
 ざざん――ざざん――という繰り返しの中に言葉が紛れた。
 ―西へ。
 と『いさら』は云った。

 


 好天でも七日はかかる航路を礁玉とワダツミは二日で戻ってきた。
 北の沿岸部の制圧は終わり目的を果たしてるとはいえ、常ならざることである。戻って開口いちばん彼が聞いたのはタマヨリのことだった。日頃からタマヨリのことなどまるで気にかけないワダツミである。アジトの留守番の海賊たちは目配せしあって、宮中での一件を伝えると礁玉の目の色がかわり、ワダツミは戦装束のまま『波濤はとう』をたずさえ出ていこうとする。
 「どこへ行く」
 「むろん宮中だ」
 礁玉はとりあえず待てとワダツミを制した。
 「まだ真偽はわからん。海から離れた社で、タマひとりに何かできたとは思えん」
 「『波濤』が騒いだ。俺は確かめねばならん」
 「あ、あのう」
 部下が恐る恐る口を挟んだ。
 「タマヨリはその一件で、任を解かれこちらへ戻ってきますでさ」
 「そうか」
 礁玉はうなづき、視線をワダツミに向けた。
 「牙剥く蛮族の群れより小娘ひとりが怖ろしいか?」
 「まさか」
 ワダツミは岩に腰を降ろした。単調な波の向こうに目をやると云った。
 「おまえが大きな国を欲するように俺にも欲しいものはあるのだ」
 「へえ初耳だねえ」
 「海の王は千年にひとりしか生まれぬ。王が死ねば空位が続く。新しい王などありえん」
 「人の身で『竜宮』をくだすると?」
 「云うてくれるな。己のものを横から掠められるのは不快であろう」
 「ワダツミ……、その件となるといやに険しいなあ」
 礁玉に応えるように波座がくいーんと高く鳴いた。
 「来たな」
 波間に蟻ほどの船影を視止めたワダツミは立ち上がった。彼は手近にあった荷積み用のいかだを波に放るとそのまま飛び乗った。着水するやいなや潮が獣の形となっていかだを咥えて走った。
 あっというまのことに礁玉と海賊はただ見送るしかなかった。島と船の間に、水柱が上が立て続けにあがった。
 「おいおい、いきなりかあ」
 礁玉は手をかざし彼方に逆巻く波を見てあきれ顔だ。
 「あたしもちょっと様子をみてくるよ」
 そう云いうが早いか波座の背に飛び乗った。
 「危ないですよお頭」
 「あの男のやることはなんだか得体が知れねえ」
 部下たちがとめるのも聞かずひらひらと手を振って云った。
 「海賊に危ないことすんなってのは、魚に泳ぐなって云うようなものさ」





つづく



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