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言語(小説:26)

土曜日、彼氏のトシキと動物園を訪れていた。大きな動物園ではないが、それにしても人はまばらで、明らかに人より動物の数の方が多かった。

こうなってくると、人間が動物を見に来ているのではなく、動物が人間を観察しているかのような感覚に陥ってしまう。

静かな動物園を二人で歩く。動物の檻の前で立ち止まることなく、横目で眺めながら歩みを進める。

動物園の奥、サルの檻の前でその日初めて立ち止まる。
「確かここだったよね」トシキが檻を見つめたまま聞いてくる。

檻の中にはサバンナモンキー4匹が木に登って追いかけっこしている。「そうだったね。でももういないみたいだね、途中の檻にもいなかったし」


3年前の今日、トシキと私はこの動物園に来ていた。動物園を一通り回って、一番奥の檻の前で「これで全部見たのかな」なんて言いながら、フクロテナガザルを見ていた。

檻の前のプレートに特徴的な鳴き声がチャームポイントと書かれていて、どんな鳴き声なのかと二人で話合っていた時に、「アー」っとおじさんのような声が聞こえたものだから、二人で顔を見合わせて笑いあった。

もう一度鳴かないかななんて、その日はずっとその檻の前にいた。その日以降、トシキとの距離はすごく近くなった気がする。

動物園に行った時には、もう既に付き合ってはいたが、いまいち距離が遠いと言うのか、膝下くらいのまでの壁がある感じだったが、その日以降はそういったことを感じることはなくなった。

トシキもどう思っているのかはわからないが、その日のことはよく話題に上がるし、「あの時は」なんて楽しそうに話しているのを見ると、トシキの中でも変化があった出来事だったのかなと思っている。


「何かあったの?急に動物園行こうって言ったから来たけど」

最近、トシキは思い詰めているのか、会うときはいつも暗かった。一緒に出掛けることも少なくなり、話していても心から笑っていないような気がしていた。

「私にできることがあるなら言って」「考え事なら一緒に考えるよ」とかできるだけコミュニケーションを取ろうとしていたけど、トシキは「ありがと、でも大丈夫」としか言わなかった。

私はそう言われるともうそれ以上言及することはできなかったが、いつか話してくれる時を待って、他愛のない話を続けていた。

そんな折に、急に動物園に行こうと誘われたものだから、どういう風の吹き回しなのかと驚いた。

「なんか、最近全部が楽しくなくてさ、友達と会っても、エリと会っても、何かが欠けてる気がして。だからまたここに来れば何か変わるのかもなんて思ったんだけど」トシキはため息交じりにそう言った。

「そうだったんだ、言ってくれてありがとね。何か私にできることはないかな」と聞いてみるが、トシキは決まり文句のように「ありがと、でも大丈夫」としか言わなかった。

こんな時、動物の鳴き声や走り回る音が沈黙を埋めてくれればいいのに、あたりは重く静かだった。それでも二人とも、檻からは離れようとせず、ただ立ち尽くしていた。

檻の前のプレートに目を移す。「このサルすごいよ、敵が来たときに鳴いて周りに危険を知らせるみたいだけど、敵によって鳴き声使い分けてるんだって」沈黙をかき消すように、なるべく明るい声で話しかけた。

トシキもこのままの空気ではよくないと思っていたのか、「おぉ、凄いね。頭いいんだね」とぎこちなくはあったが、明るく返してくれた。

「でも、なんでなんだろうね、このプレートにはそれ以上のことは書いていないけど」

「んー、やっぱり環境が厳しいんじゃない?生きにくい環境だから細かいコミュニケーションが必要なんだと思う。まぁだからなのか、こんだけコミュニケーションが発達している人間はものすごく生きにくいものなのかもね」とトシキは力なく笑った。

笑った後で「ごめん」と呟いた。

「そうかなぁ、逆かもよ。本当は、他の動物たちとも喋りたくて声色変えて話そうとしてたんじゃない?結果的にそれはうまく行かなくて、今はこんな形で残っちゃったのかも知れないけど、最初は他の動物にも伝えたいことがあったのかも知れない。そう考えたら人間の世界はたくさん共有したいものがある世界なのかもね」

そう私が言うと、トシキは一瞬きつねにつままれたような顔をしたが、何かが吹っ切れたように笑って「そうかもね」と明るく答えてくれた。

トシキは一つ大きな深呼吸をすると、「よし!じゃあ今日はエリが前から行きたがってたパフェ食べに行こう!」そうはっきりとした口調で言い、振り返って出口を目指した。

その足取りは軽やかで、迷いが消えていた。私はなんだか嬉しくなり、少し泣きそうになった。

サバンナモンキーがこちらに「キーキー」と鳴きかけてくる。私も「キー」と返し、トシキを追った。

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