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ダ・ヴィンチ子宮全摘出手術4 手術日・朝

ダ・ヴィンチという手術支援ロボットを使って、子宮全摘出手術を受ける。
34歳の5月半ばのこと。

自然に目が覚めた。
7時ちょっと前か。
この日の天気を思い出せない。
病室の外では、廊下を歩く足音やトイレを流す音、洗面台で歯磨きをする音が聞こえてくる。
「おはようございまーす」
病室のドアが開けられ、看護師さんが小さなワゴンを引いて入ってくる。
ヤバい、寝坊扱いだ。
電灯がつけられ、カーテンを開けられた。
「ゆうべ、眠れた?」
「はい、ぐっすりです」
自分でもびっくりだった。
夜中に何度かうっすら目が覚めた気がしたが、ほとんど熟睡できた。
「朝の血圧測りますねー。体温計もお願いしまーす」
のろのろと身体を起こし、巻かれた腕が締め付けられる。
「今日は朝ごはんなしで、11時まではお水お茶飲んで良いですからね」
体温計の表示は37.2℃、平熱よりちょっと高め。
「寝起きだしねー。ちょっと緊張してるのかな」
看護師さんが去ると、急にお腹が動き出した。
これは…昨夜の下剤が効いてきたか…。
トイレに入ると、穏やかに排便。
これくらいの優しい下剤なら嬉しい。
まだ少し残った感じがあったが、手術まではまだ時間があるのでそのうち出るだろう。
出すものを出したらお腹が減ってきた。
朝食はないが、歯磨きだけはちゃんとやる。
歯科衛生士さんからも言われていたのだ。
食べていないときでも、ベッドから歩けるときは極力歯磨きをして、と。
口の中が少しすっきりした。

昨日の昼からジエノゲストを飲んでいないせいか、少し出血量が増えてきた気がした。
何度かトイレに通ったが、そのたびに下半身の穴という穴から出るものをひととおり出した。
出血する身体との付き合いも、あと数時間だ。
せいせいするような、寂しいような。

地震

朝9時ごろ、ベッドに座っていると身体が揺れる感じがした。
部屋の周りを見てみると、カーテンが規則的にゆらゆら揺れている。
どこかで棚の中身が動いているのか、ごとごとと音がする。
TwitterのNERVのアカウントをひらくと、地震速報が出ていた。
この病院は免振構造になっており、地震の際には建物ごと水平に動いてエネルギーを逃すのだという。
震度は1か2で大したことはなかったと思うが、揺れに合わせて病室の中のものがぬるぬると動くのが面白かった。
もし、手術の最中に地震が起きて停電などしたらどうなるのだろう。
非常用発電設備はどの部分まで賄えるのだろう。
今回受けるロボット支援下手術は特に、電気なしには実施できない。
たかが電気おじさんこと坂本龍一は、皮肉にも電気の力によって余命の延長に成功したのだ。
災害発生時のバックアップ体制は万全だと信じてゆだねるしかない。

暇つぶし

電子書籍を開いてみたり、スマートフォンであれこれ見てみたり、暇つぶしをしても落ち着かない。
ロビーの給水器でお湯の水割りをつくってちびちび飲む。
めちゃめちゃ身体にやさしい温度。
部屋に誰もいないのをいいことに、音量を絞ってラジオを流していた。
FMの平日朝のトーク番組で、誰かがリクエストしたスピッツ『運命の人』が流れてきた。

スピッツの中で一番好きな曲かもしれない。
心細い今、聴けて良かった。

トイレにはまた何度か通い、その都度少しずつ排便があった。
しかし、全部出し切ったか自信がない。
差し当たり出口近くにあるやつがなくなってしまえばそれで良いのかな。

10時ころ、廊下が少し賑やかになる。
看護学生さんたちが、実習の一環として病室の清掃を行っていた。
「失礼します。お掃除させていただきます」
頬の赤い初々しい学生さんたちが、棚やテーブル、ベッドの手すりを除菌シートで拭き、シーツにコロコロをかけ、照明のほこり取りをしていった。
ありがとう、おつかれさま、と声をかけると、ステップ軽やかに去っていく。
長く入院していたら、こうした交流を嬉しく思うのかもしれない。

小説を読んでいると、看護師さんがやってきた。
「練り物さん、11時なので、もうお水も飲めません」
あ、もうそんな時間に。
「お便、出ました?」
「はい、いつもの朝出るくらいは出ましたが…全部出し切ったかは自信ありません」
「いつもくらい出ているなら大丈夫ですよ」
安心した…浣腸は免れた!
「午後一番目の手術になるので、12:30ころ手術室に入ると思います。もう少ししたら、血栓予防のストッキングを履いてもらいますね」
あと小一時間で、私の身体は変わる。
そう思うと、目が熱くなる。

気を紛らせるためにまた小説を読む。
何の本だったかも忘れかけている。
松田青子の続きだっただろうか。
彼女がアメリア・グレイ『AM/PM』の訳者であったことを知ったのはこの辺りだった気がする。

「失礼します」
若手の看護師さんが手に白い布製の何かを持ってきた。
「脚の血栓予防ストッキングを持ってきました。こちらを履いてもらいます」
これは前にも履きましたよ。
かなりきつめのストッキング。
靴下を脱いだ私の足の甲を、看護師さんが指でなにか探っている。
血管で脈をとっているようで、ポイントを見つけてマジックで丸く印をつけた。
渡されたストッキングを自分で履く。
なかなかきつい。

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前の手術のときは、子宮頚管拡張で動けない中、看護師さんが無理くりに履かせてくれたっけ。
ぐいぐいとたくし上げられるたびに膣の中のガーゼが嫌なところに当たってつらかった思い出。
今回は子宮頚管拡張がないので、スイスイ超余裕。
かかともすっぽり入って、準備万端である。
「…これで本が読めるんですか?」
テーブルに置いてあった電子書籍リーダーを見て、その看護師さんが尋ねてきた。
「そうなんです、小説でも漫画でも何百冊も入れておけて、いつでも読めますよ」
「こういうものがあるんですね。私は活字が苦手なもので…」
「そうなんですね、あはは」
こんなちょっとした会話が安らぐ。

呼ばれる

12:30のちょっと前。
「練り物さん、手術室から呼ばれましたので行きましょう」
先ほどのストッキングと電子書籍の看護師さんが呼びに来た。
とうとう来たか…。
眼鏡ケースだけを持って、部屋をあとにした。
職員用の裏のエレベーターを待つ間、急に涙が込み上げてきた。
目を拭い、鼻をすすっても止まらない。
「あぁ~不安ですよね」
看護師さんがずっと背中をさすってくれた。
エレベーターに乗っても、静かに涙が止まらない。
目を真っ赤にしたいい歳の女が俯いて泣いているところ、若い看護師さんに励まされている。
エレベーターには別の科のドクターも乗り込んでくる。
やだ見られちゃった恥ずかしい。
早く着いてよエレベーター。

このとき、何が悲しくて、何が怖くて、何が不安で泣いたのか、自分でも今もよくわからない
漠然とした不安や緊張感で精神状態が不安定だった、とまとめてしまえばそれまでであるが。
麻酔で目覚めなかったらどうしよう、ということはあまり考えたことがない。
目覚めた後にくる痛みが不安だったのだろうか。
子宮を失うことで子を授かれないことを、実は不安に思っていたのだろうか。
手術さえすれば、今より健康で元気いっぱいな自分になれるじゃないか。
そう信じて手術を決断したんだから、何を今さら泣くことがある。

エレベーターが、手術室のあるフロアに到着した。
看護師さんが手術室インターホンを押す。
「7階病棟の練り物副大臣さんをお連れしました」
銀色に縁どられた自動ドアが開く。
いよいよこの先だ。
行ってきます。

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