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『幸せになる勇気』

やふぅー٩( 'ω' )و
今回は、『幸せになる勇気 』を読んだので紹介します。

岸見一郎/古賀史健 『幸せになる勇気』 (ダイヤモンド社第1版、2016)


これもまた、いつ買ったのか覚えてさえいない積読の1冊。
これの前作、『嫌われる勇気』も読んだんだけどなー(ほとんど記憶にない)。


さて、本書。
改めて本を見て思ったのが、幸せになることにも”勇気”が必要とされること。
読む前から正直、気が滅入ってしまった。

読んでみると哲学的考察に同意しつつも、やはりアドラーの提示することは難しいと思わされる。
アドラー心理学の提唱理論自体が、もちろん難しい。
また、アドラーの提示することを誰もが出来たとしても、新しい環境は生きている間に実現不可能な気がしてくる。
そこで妨げとなるのが、挫折や諦めなのではないかと考えた。

それでも、私は本書を読むことをおすすめする。
(この本は流行ったらしいので、すでにたくさんの人が読んでいるかもしれないが)
第4部〜第5部では、自身の経験や失敗を思い出して泣けた。
換言するのであれば、己の愚かさをとことん突きつけられたから、私は泣いたのだ。
徹底して自身を見つつ、「これからどうする」を考え続けるには非常に良い本である。


ざっくり内容

心理学者であり、哲学者であったアルフレッド・アドラー。
彼の考察を、我々の現実社会でどう考え、また活かすのか。
それが哲人と青年、2人の対話方式で押し問答されている本である。

五部作で、編成されている本書。
進むごとに難しいと思わされるのは、哲学だからだろうか。
アドラー心理学がフロイトと異なることの1つは、机上の空論でなく、より実践的であることだとされる。
提示される理論と、出来ていない自身の現実を考えながら読み進めた。

前作(『嫌われる勇気』)で、青年は哲人にアドラーの理論を学んでいる。
今作で彼は、図書館司書を辞め、教育者として進むが上手くいかない。

青年はアドラーも、フロイトなどと同様に机上の空論ではないのか?
アドラーは宗教ではないのか?
質問をぶつけに哲人を訪れる。
イラっとさせられるような青年の質問に、哲人は1つ1つ諭していく。
このイラっとする青年の問いは明瞭簡潔で、読書に分かりやすい。

第一部

青年は、教育者である。
教育現場において、アドラー心理学を用いようとするも失敗する。

教育には、自立が必要である。
その援助として、教育者がある。

相手を尊敬すること。
その尊敬の意は、権力への服従ではない。

アドラーの言う、「共同体感覚」と呼ばれるもの。
尊敬とは、他者への関心でもあること。
関心は他者に対してではなく、他者になりきるようにして感じる。
共感を持ちながら、相手を尊敬(尊重)する。
配下に置かれたものとして、相手を尊ぶのではなく、共感を持つ尊重だ。

また、人とは、自分の非を過去の出来事のせいにすることがる。
しかしアドラーによれば、人は、正しく過去の存在を引き出すことが困難である。
現在の出来事と因果関係のある、一部の過去の出来事しか見ない。
これにより、自身の非を自身に納得させる一部の過去を引き出すこととなる。
過去は存在しないとさえ書かれている。

人は否定されると、誰かに相談する。
その時、以下のような関係が生じる。

・悪いあの人
・かわいそうな私
・これからどうするか(多くの場合、最初は見えていない)

この三角柱を、正しく見極める。
「これからどうするか」が重要である。

第二部

叱ることも、ほめることもしない。

問題行動の目的5つの段階。

1.賞賛の要求
2.注目喚起
3.権力争い
4.復讐
5.無能の証明

教育現場で起こる問題行動の大半は、第三段階で止まっていることが多い。
その先の段階に行かせないために、教育者の存在がある。
教育者は「変えられるもの」に、着目すべきだ。

幸福の本質は「貢献感」なのだ

岸見一郎/古賀史健『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社第1版、2016)、123頁。セルフ


誰かに叱られないようにする。
誰かにほめられようとする。

人の支配下にあること、終わることのない承認欲求では自身の幸福には辿り着けない。

「自分の人生は、自分で選ぶことができる」

同上、125頁。

人は自身で、進む道を選択することが可能である。
教育者が教育を必要とする者を援助しながら、彼らの決断を尊重する必要があるのだ。

第三部

自らが決定し、人が自分自身であることに価値を置く。
自分の価値を、自らが決めることによる承認。

「メサイヤ・コンプレックス」問題。
→誰かの救いとなっていることに、価値を見出すこと。

第四部

「信用」と「信頼」の違い。

信用とは、条件付けのもと成り立つ状態である。
信頼とは、条件付けをすることのない状態である。
また信頼は、能動的な働きかけによるものである。

第五部

愛とは何か?

「わたし」から、「わたしたち」へとなる自立。
主語が変わることにより、エゴイズムからの解放。

愛することも能動的に行う。
愛は”落ちる”ものではない。
ただひたすらに、相手を愛する(能動的)。

まとめ

途中から、まとめが雑になってしまった(´・ω・`)
アドラー心理学は難しいけれど、良い方向転換となった。

自身の価値観や承認欲求は、自身が選択して満足すれば良い。
なぜなら、承認欲求には終わりがないから。
愛することについても、”運命の相手”など考えない。
そうすることで、自分が傷つかないようにしているだけだから。
そもそも、ギリシャ思想を持っていない私は”運命論者”でないはずである。

満たされたい気持ちは、自身で選択し、自分自身が良いと思えば良い。
愛することは、”私が”というエゴを捨てて”私たち”となるように。

私は、こんなに出来そうにもない。
考えの発想転換として、アドラー心理学の学びは素晴らしいと思うが。

他者や社会への貢献によって、自分自身を承認(=価値を見出す=自身で選択する幸福)することを貫ける人は、一体どれだけいるのか。
もはや、それは人なのか?!領域だ(持論)。
完全に遂行出来たとしても、それは虚しくなる時がないのか。
自身を承認し、与えられた任務を共同体で行う。

愛することについても、愛は落ちるものではない。
それは、理解する。
アドラー心理学では、相手が振り向かなくても、そんなことは気にせず、ただひたすら一方的に能動的に愛せよと言う。
自分には出来そうにもない。
やっぱり、アドラー心理学を完遂できる人がいるなら、それは人ではない領域だと思ってしまう。

アドラー心理学は、出来たら良いだろう。
しかし、やはり現代においては彼の思想が理想的な部分もあると思う。
孤独の概念や喜び、共同体との繋がり方は、彼の生きていた時代と現代社会は、大きく異なることも理由だ。


例えば私は今、髪の毛全体を10mm以下の丸坊主にしたい。
セットが面倒くさいし、切りに行くのも面倒くさい。
髪型にこだわりもない。
時間も労力も削減可能なら、髪の毛についてはとことん楽をして、旅やけん玉費用に充てたい。

坊主に出来たら、さぞかし楽だろう(20代初期には実際、丸坊主時期があった)。

実際は、社会の目をどうしても気にしてしまう。
坊主にしても大丈夫なんか?(色々、心配されそう)。
私はただ、費用(時間と労力)削減可能なところを、削減したいだけなんだ!!!!!!!!!!

【セットするための費用】
日々の電気代(ドライヤー)、ヘアバームやワックス、シャプーやコンディショナー(アレルギー多いので全部こだわり有り)

【坊主頭の費用】
特に必要なし
時々バリカンで揃える必要(電気代)

んあああああ!!
でも、周りの目を想像すると怖くて出来ない。
(美容師の友人などは、頭の形を褒めてくれたりした)

頼むから放っておいてくれ!!と、他者に無関心を期待し、願ってしまう。
すなわち、自由な髪型の私を受け入れて欲しいという、承認欲求も含まれている。
受け入れて欲しい、尊重して欲しい、愛されたい。
全部入ってるんじゃね?
本読んだ後の願望かよって話だ。

この本は、書いてあること自体が難しい。
実行することは、さらに難しい。

それでも、人の弱さや愛について…
アドラーの提唱したことには、同意することが多い。
不甲斐ない過去の自分を思い出して、泣けてくることもある。
すでに出来ていることには、少しばかり安心させられる。
やはり、己の愚かさや愚行を突きつけられる。

本書内に、ニーバーの祈りが引用されている。
私は、このニーバーの祈りが諸説あるとされているが、個人的にめちゃくちゃ好きだ。
坊主にしたい!!いや、でも?!と、揺れている私への訓戒も含めて、まとめの最後に引用させていただく。

「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。」

同上、117頁。


諸々書いてきましたが、これは1度は読んだ方が良い!!と思う本です。
上の引用したニーバーの祈りにあるように、出来ない自分にぶち当たって、床で伏せて泣いてしまいそうな本でもあるのだが。





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