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就活をしている時点で、負け組なのか


「MBBで妥協」

「お前は戦コンとかいくなよ笑」
「たいしてやりたいこともないしMBBで妥協するかー」
「外銀に行くのはちょっと安直すぎない?」

僕が周囲の人間たちから実際に耳にしてきた言葉である。

多くの人にとっては、腹が立つような言葉達だろう。
トップティアーの戦略コンサルや投資銀行なんて、東大京大に通っていないと選考の土俵にも立てない場合も多いような、世間的には「トップ」の就職先である。

だが一方で、僕の周りには、これらの会社を「妥協先」として見做している人が一定数いるということを認めなくてはならない。あるいは、外資系トップ企業への就職は「資本主義への屈服」であり、就活をすることイコールその屈服への道を自ら選ぶことである、という価値観が存在する。

なんと鼻に触る話だろうか!

けれど、彼らのことを「性悪で社会の厳しさを何もわかっていない甘ったれた人間」として切り捨てるべきだと思わない。というよりむしろ、僕には彼らが理解できる。
….彼らのような人間の周囲には「型にとらわれず」将来の活躍に向けて羽ばたく輝かしい同期が沢山いる:医者になり人の命を救う人たち、司法に携わり正義を仕事にする人たち、学者として人類の叡智のフロンティアを開拓していく人たち、会社を立ち上げ社会課題を自らの手で解決していく人たち….
そういった人間に囲まれていると、民間企業就職、という世の大学生の大半が通る道を選び、会社に守られて私利のために生きる…というのが惨めというか、少し下等なことに思えてしまうことがある
そういうことだと思う。

とある就活生の葛藤

4時間前、僕は先程(おそらく)そういった感情を抱いていて、それでも大学生活の4年間で自分の「オリジナル」な道を見つけることができなかったがためにコンサル就活をすることに決めたある学生と話していた。

もちろん、彼の抱える葛藤は痛いほどわかる。
僕も、叶うならば芸術家になりたいと思い続けてきた人間だから。

だけれど僕は、自分がビジネスに向いた人材であることを理解しているし、コーポレートファイナンスはまた芸術とは別の意味で好きだ。だから、企業財務に専門家として携わっていける金融の道を選んだ。

それでもってここで彼にとって残酷なのは、僕の場合と違い、彼はコンサルティングを特別好きなわけでもないということである。
「レジュメで見栄えがいい」
実際、彼はコンサルを検討する理由としてこう言った。そして続けて、
「僕は大学で自分のやりたいことを見つけられなかった。だから、底辺だ。コンサルに行くしかない」
と言う彼を前に僕は、彼に明快な理論を示して、ネガティブな発想を和らげてあげないといけないと思った。具体的には、
「彼に、コンサルに行くことは負け組ではないと伝えたい」
彼のような人間と、MBBに入れれば万々歳だと思っているような人間の架け橋になるような考え方を提唱しなければならない」
と思ったのである。

幸せになろうとなんてしてはいけない


結論から話そう。

幸せになろうとするのは悪だ、と思いすぎて正義を追求する彼もまた、自らが批判する幸せの追求に陥っている。
そう思う。

彼の目には、トップ企業への内定が至高のゴールだと信じて疑わない周囲の学生は浅はかに見えているかもしれない。それは個人的・物質的な充実の追求に過ぎず、もっと崇高な大義を伴わない、だから僕はもっと中身のある選択をしよう、そんなふうにして彼は「自分のしたいことを探す旅」に大学生活を懸けて出ることになった。

しかし、「自分のしたいことを見つける」という難題に彼は敗れる(少なくとも本人の認識においては)ことになる。何故か。
それは、自分のやりたいことなんてわからないのが当たり前だからである。世間の美談に騙されてはいけない。諸々の分野で偉大な業績を残した人間の伝記を読めば、彼らはまるで人生の中で自らの天職を見極め、その道を最後まで生き抜いた凛々しい存在として描かれていることが殆どである。だけど、僕はここで書いておきたい。偉大な何かを成し遂げるプロセスというのは、ただ自分の今置かれた場所において苦しんで、嫌だ、やりたくない、けどやらなければならない、頑張ってみよう、というか頑張るしかない、苦しい、辛い、けどもう一プッシュしてみよう、と自分に限界を強いつづけることだと思う。そして、歴史に名を残すようなユニークでグレイトな人たちも、「自分のやりたいことはなんだろう」と何年間も葛藤する余裕はなかったんじゃなかろうか。

自分のやりたいことなんて、頑張って頭を使って考えたら見つかるものではない。そこに必要なのはやはり実際に取り組んでみることであり、実践である。実践、はここ一年の僕の中で大きなテーマになっている言葉である。

偉大な何かを成し遂げる人間は、言うなればそうなる運命にあったとも言える。対照的に、悩める就活生の彼は、「何かを成し遂げたい」という禁断の欲望をもってしまったように思われる。それは叶わない夢であり、そもそも彼自身が批判の対象としていた「自己の幸福の追求」の一形態なのである。そして彼は恐らく彼自身が抱えるこの自己矛盾にも半分気づいている。だからモヤモヤしてしまう。

皮肉にも、就職より崇高な道を考えることもなく内定こそ至高だと思っている学生の方が、偉大なる先人たちに近い道をゆくのである。これは社会にありがちな、過剰思考が不幸をもたらすというシンプルな寓話の一例に止まらない。むしろこの話は、過剰情報社会が我々の人生における選択肢を増やし過ぎ、我々の人生から「大きな物語」を奪い、個人社会の中で自らの存在意義を見つけられないという自由の不幸に喘ぐ多くの若者という現代社会の病気に直結していると思うのである。

僕も、色とりどりの夢を見てきながらも、結局は自分の収まるべき場所で社会人キャリアをスタートさせようとしている一学生である。この記事は悩める自分に対する処方箋でもあった。

就活をしている時点で、負け組なのか

就活をするということは、それより崇高な道を知っていて、それを諦めて妥協したという自覚を持つ者にとっては間違いなく負け組に感じられるだろう。しかし、それはキャリア選択によって自分の人生の幸福度が左右される、という考え方をしているからである。

実際にはキャリアの方向性としてどの進路を選ぶかなんていうのは「どう生きるか」とは関連のない話であり、負け組とか勝ち組とか上下の問題とは関係がないのである。だから「就活をするのは負け組か」というのは回答することができない、又はそれ自体が不成立であるような問いである。

生き方、とは自分をどのポジションに置くかではない。
置かれたポジションでいかにあがくか、こそが生き方だと思って今の若者は特に生きた方が良いのではないか。むしろそこで自分の中で甘えたいという感情に打ち克つことができるかどうかで、人生の勝ち負けが決まると考えた方が良いのではないか。唯一の敵は、自分自身であるべきだ。

我々は遠い昔から、生まれたその地で暮らしてきた動物である。それがここ数百年そこらで、住むならニューヨークかロンドンがいいだとか、若い起業家はみんなドバイに行こう!だとか、不自然な営みが当たり前になってしまった。そのような現代社会において、自分の持ち合った環境を大事にすることの重要性が見えにくくなっているような気がする。

大事なのはあなただけのストーリーであり、それを便利さや見栄えのような簡単に客観化・定量化できるものに替えてはいけない。レジュメのために就職先を選ぶのも、「自分だけのストーリーを作ろう」と意気込んで「やりたいことを探す」のも、あまりに的外れだ。あなただけのストーリーを、あなたの徹底的なあがきが、苦しみが、あなたの代わりに自然と物語ってくれる。

偉大な人生を志すなら、生きることをこのように捉えるのはどうだろうか。








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