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すべてのモヤモヤはどこぞへ続く

子どもの学校の弁論大会で、一等をとった作品が、その子の人生を揺るがす感動的な体験が主張の論拠だったという話を聞いた。

もちろん、それはきっと構成もすばらしかったんだろうと思うけれど、それは果たして弁論大会と言えるのだろうかというモヤモヤが残った。

というのも、以前も本の紹介のコンペで、元々子どもに人気のあるエンタメ作品を紹介した子が一等をとったという話を聞いたからだ。

ちなみに娘が紹介した本は下記の通り。

うん、すばらしい本だけど、中田敦彦あたりを連れて来ない限り、勝てないよ。

結果を見るに、型を練習するより、コンテンツ選びを含め、広告で使われている心理操作の技術を磨くことが、勝利の近道ではないか。

でも、人の心を動かす技術を学ぶのが、学校で教えるべき国語の力なのだろうか?

自分の体験から最も道徳的な主張につながるインパクトのあるものを選んで、既に認知度と好感度の高い素材とつなげ、感情を揺り動かす語りのできる大人=優秀なプレゼンパーソンにすることが、教育の目的なのだろうか?

・・・

と、モヤモヤしてたんだけど、日本の学校でやってる弁論は、そもそも学問ではなかったのかもしれないと、下記の本を読んで思った。

これは哲学の試験の話なんだけど、引用をちょっと見てほしい。

バカロレア哲学試験では、個人的な体験や感想を書くことは勧められません。なぜなら、それはあくまで個人的なものであり、他の人たちにとっても正しいかどうかは、わからないからです。

バカロレアの哲学 P111

「私はこう思う」のような主観的表現はバカロレア哲学試験ではご法度です。

バカロレアの哲学 P89

小論文では、自分の支持する立場と反対の意見に対しても、それが論拠に基づいたものであることを示すことが重視されます。反対意見が決して荒唐無稽な誤謬ではないことを明らかにした上で、その限界や問題点について述べ、自分の支持する立場(大さんの立場を支持する場合はもう一方の意見)に移行することが、必要な手続きなのです。このような反対意見の妥当性・論理性の尊重は、民主主義社会において必要な態度ですが、それを育てる仕組みとして哲学教育は機能しているのです。

バカロレアの哲学 P110

学校の国語が教えるのは哲学じゃない。でも、いま国語の力が必要なのって、相手を洗脳したり、議論で打ち負かすことじゃなく、ここで書かれているような、反対意見を持った相手と互いの立場を尊重した上で対話することなんじゃないだろうか?

ちなみに、このバカロレア試験は、最近よく知られるようになった国際バカロレアとは別のものであり、これが行われているフランスの学生が、この技術を身につけているわけでもないという。

ただ、驚いたのは、日本でロジカルな文章テクニックとして知られているアメリカ式エッセイの型は、大学が大衆化した際に簡略化されたアメリカ版「ゆとり教育」の産物で、「反対の立場の論拠も書く」という上記の重要な部分がカットされたものだという記述があったこと。

なるほど。これが、日本に入ってきて、さらに論拠として自分の体験からの学びを書くという、日本の作文の型が吸収されたというわけか。

だから、一方的に主観的な体験をもとに一方的な主張をすることになってしまった。これじゃ、異なる文化の相手と分かり合えるはずもない。

そりゃ国会議事堂もテンション上がるわけですね。

・・・

日本型の作文もひとつの技術だ。

それは、表現の喜びで、言葉を学ぶ重要な目的のひとつだと思う。
芸術としての国語を教えることは、これからも大切にしてほしい。

・・・

そう思って、ああ、自分は論理展開の技術を作文と混ぜこぜにして、文章を使った自己表現を、主義主張を通すための道具に還元されるのが嫌だったんだ。

今日は、5分日記のカテゴリーだけど、5分日記じゃない。

国語教育に茶々入れといてなんだけど、自分を振り返れば、型を大事にするのって、ほんと難しい。5分日記と他の文章。ちゃんと分けてから統合したいのに。

…そっか。これは型を守れない、文章を使った自己表現を、ときに主義主張の道具にしてしまっている、自分自身へのモヤモヤなのかもしれないね。

おかえり、モヤモヤ。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。