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これからの仕事に必要な、持続可能性を育むもの

4月から、本格的に対話を中心にした内省の支援を本業に組み込んでいこうと動き出している。

これは、コロナで活動を停止した写真の撮り方の講師をしていたときからやりたかったことだ。

写真の撮り方を通して、内省を深め、思考の檻から自由になり、自分自身の現実を再構築する=自己表現力を身につける術を伝えたい。

残念なことに、簡単に撮れる方法を期待して集まる受講者に、そのようなニーズはなかった。そもそも、多くても数回で完結する集団でのレッスンでは構造的にも無理だった。

でも、深く考え、現実を再構築し、意識的に表現する力は、わたしが写真の撮り方を習得する過程で受け取った、最も大きなギフトだった。

写真撮影は文字通り、現実を切り取り、意図を持って再構築する作業である。

物心ついたころから、絵や物語を書いていたので、自分を表現することには慣れていたけれど、外の刺激を受けてから、絵や物語が現れるまでのプロセスは、写真ほどわかりやすくない。

だからなのか、写真に出会うまでは、自己表現を通して「自分は何をしようとしているのか」をふりかえる視点を持つことはなかった。

それが写真撮影を始めてから、絵に関しても自分はなぜこのような絵を描きたいのか、それが自分にとってどんな意味を持つのかを深く考えるようになったのだ。

自己表現は、自分の外側の世界と、自分の内側の世界との交流である。

こう言うと、「いや、全てのコミュニケーションはそうだろう」と言う人もいるかもしれないけれど、

親の子としての自分、
姉としての自分、
生徒としての自分、
友達としての自分、
恋人としての自分(いれば)…

ほとんどの場合、相手との関係性と期待される役割の仮面に応じた表現を、わたしたちは無意識のうちにしているから、自己表現としては疑わしいとわたしは思っている。

待ち合わせに遅刻されて、どんなメッセージを相手に送るか。
そもそもイラっとするのか、心配になるのか。

それが相手によるなら、他者とのコミュニケーションは、自己表現というよりは、特定の対象に対して起きる、条件反射的なものである可能性がある。

わたしが思う「交流」は、ラリーのようにポンポン投げ合うことが可能な、そういう即時的なものではない。

食べ物が血や肉(あるいは茶色い物体)になる前に、一旦消化されるように、

幼虫が蛹の中で一旦元の形を失うようなプロセスを経た、深い交流のことを指している。

それは、外から来たものと自分の一部が混じり合ったものだ。

もちろん、対人コミュニケーションでも、このプロセスを使い、自分の言葉で話す瞬間もあると思う。

でも、いつもは無理だ。それにたいていの相手は、そんなこと別に求めてもいない。

でも、相手が人であれ、外の社会そのものであれ、そういう交流がまったくないのは、生きた心地がしない。

そして、忙しすぎる今の社会はこの「生きた心地がしない交流」で埋め尽くされていると感じている。

需要がどれくらいあるかは、わからない。

でも、こういう交流は、いずれにしたってそんなにたくさんの人とはできない。

マッチする相手は、多分100人に1人でも多すぎる。

インターネットが広げる出会いの可能性。

わたしに限らず、いかに多くの人の評価を得るかより、いかに生きた心地のする交流ができるかが、これからの持続可能な仕事の基盤になる気がしている。

そのためには、まず自分が自分の言葉で語れる、すなわち自己表現ができることが大前提で、その入り口になる、深く考える術を写真の撮り方や、自分がこれまで活用してきたツールを通して支援したい。

「シリコンバレー発!」「googleやマッキンゼーで採用!」のようなそれだけでエビデンス感を醸し出すようなソースはないし、

「すぐできる!」「3日で身に付く」ようなものでもないけれど、

それだけに、そういう売れる情報やテクニックがスコープ外に押しやっている、内省力を育てるうえで欠かせない領域に対して、実践的なアプローチができると、こっそり自負している。

そろそろちゃんとまとめて、サービスの玄関を開けたい。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。