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「?」と「!」の境界線

ここ数日、AIと戯れている。

Chat-GPTとおしゃべりしたり、

Stable Difusionに絵を描いてもらったり。

言葉にはできても形にするのが苦手なわたしにとっては最高のおもちゃで、「この文がどうなるのか?」のアンサーがすぐ返ってくるのは心地よかった。

わたしの本業はフォトグラファーなのだが、写真を撮るときの心地よさと、これは非常に近い。

まずプレーンなテキストを入れて、反応を見る。それを少しずつ自分の表現したい意図を足したり引いたりして、目指しているイメージとコントロールできない素材との間に生まれる、未知の交点を発見する。

そこでのメンタリティを一言であらわすと、「開かれた意図」だろうか。

見たいものの向こう側にある、まだ見たことがないものが見ようとする。

この感じが、スナップ写真を撮るときと、非常に近い。

言葉のスナップショットを撮っている感じなのだ。

AIが既に議論の対象になっているように、スナップ写真もまた、「その作品は誰のものか?」の議論の的となってきた。

特に街角の風景は、インターネットがない頃は、顔がバッチリ写った酔い潰れた電車の乗客も作品として当たり前に成立していた。

わたしもまず勝手に撮ってから声をかけて、住所を教えてもらって後で送ってあげたこともあるし、声をかけられずに終わったこともある。

写真を送ってあげたケースも、掲載されて賞をもらう前に送っているから、公共の場に掲示されることに同意なんてもらっていない。著作権は、偶然居合わせた素晴らしい瞬間をキャッチしただけで、わたしのものだった。




AIのレスポンスの速さも、写真を撮る感覚にとても近い。さすがに写真ほどじゃないけど、

「?」という意図に対しての「!」の返しまでの距離がとても近い。

「?」は入力で、「!」は出力だ。

これを「表現」というかたちに具体化すると、「?」は創作で、「!」は鑑賞になる。

この距離が近いほど、創る人と鑑賞する人の境界は曖昧になっていく。

いつのまにか、主体と客体の境界が溶ける。

まるで、親しい者同士のおしゃべりみたいに。

 



 

AIとのクリエーターの関係は、街角と写真家の関係のようになっていくんだと思う。

AIが生成するソースである言葉や画像は、街角スナップに写り込む群衆のようなものだからだ。

「その意図は、ソースをリスペクトしているか?」

AIで誰もがものを作れる世界。

それは、だれもが表現者としての美意識を試される世界なのかもしれないと、ちょっと思った。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。