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この世界はマリオカートか?

子どもたちがマリオカートをやっている。
自分もときどき一緒にやるけど、恐ろしく下手くそだ。

子どもと合わせて三人でやると、ビリである12位から10位の争いになり、コンピュータの参加を外せない仕様なのが恨めしくなるありさま。

あまりにも下手なので、ときに逆走したことに気づかず、ずいぶん経ってから、上にジュゲムが看板を持ってウロウロしていることに気づくこともある。

もう、今更方向を変えても12位確定なので、だったらゲームが終わるまで逆走してやったほうがなんだか面白い気分になってきて、いっそ人の邪魔をする遊びに変えちゃえと、ワクワクする自分を発見したりする。

で、ここではたと思うのである。

ああ、これが悪に走るってことなんだなって。

自分の内側や世の中に溢れる悪に頭を抱えるとき、わたしたちは人間の本性は悪なのか?それとも善なのか?と悩む。

悩んだ挙句、そもそも善の定義や悪の定義がないとはじまらないことに行き着いて、結局なにもわからなくなる。

でも、このマリオカート的世界観で悪を眺めて気付くのは、わたしたちが本質的になんであれ、きっと同じ方向を最初は向いていたということだ。

あれをやってみたい、これをやってみたい、できるようになりたい、ひとよりすぐれていたい、ほめられたい、じぶんをみつけたい、ひとのやくにたちたい…。

ひとつクリアするごとに現れてくる、あたらしい願い。

でも、それが挫かれる人もいて、そういう人は必死に走り続けているうちに、逆走してしまいがちだ。

そして、かなり逆走してはじめて、自分が逆走していると指摘され、愕然とする。

今更できる気がしない、完全に置いて行かれた、もう、手遅れだ。

仮に流れに戻っても、周回遅れ、勝利の喜びもなければ、褒められることもないだろう。もはや存在意義、ないじゃないか。

そう思ったとき、わたしたちはコントローラーを投げ捨てるか、なんらかの方法でもう一度立ち上がるかのどちらかの選択を迫られるわけだけど、

そんな絶望の淵で気持ちを立ち上がらせ、生きる気力をもう一度手に入れるにはどうすればいいだろう?

そうだ、どちらが「前」かを変えてしまえばいいんだ!

わたしがマリオカートで感じた、あのワクワク感である。

逆走した時間が短く、誰かが早めに教えてくれたり、待っていてくれたり、一緒にゆっくり走ってくれれば、元の流れに戻ることもできるだろう。

でも、マリオカートはレースだから、そういうわけにいかなくて、わたしは悪に走った。

この世界は、レースだろうか?

逆走した誰かに声をかけたり、自分もちょっとだけ逆走して戻り、一緒にゆっくり走ったら、「おいていかれて」しまうような世界なんだろうか?

この世界は、マリオカートと同じか?

なんて、陽気な音楽を聴きながら、闇堕ちした配管工の背に、そんなことを思うのである。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。