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繕い物ができるくらい元気

ずーっと気になっていた、子どもの服を繕うことができた。

大した時間かかるわけじゃないのに、針と糸とアイロンを取り出して、服の穴を塞いだり、ボタンをつけたり。

どうしてか、何ヶ月という単位でできないときがある。

強制的にするために、こういう溜まった苦手な家事を一緒にするオンラインコミュニティを作ろうかなと何度も思ったくらいだ。

その運営の手間を考えたら、その時間で縫えるのに。

で、できる瞬間が訪れた理由は、できる瞬間には感じ取れる。

子どもたちの春休みが終わって、単純に、ちょっと元気になったのだ。

まだ給食が始まったわけじゃないから、物理的に余裕ができたわけじゃないけれど、あれをしなきゃとか、これを考えなきゃとかいう、自分の中でうようよしている心配事が、先が少し見えるようになったことで空間が広がり、思考の混雑度が下がったのである。

「忙しい、忙しい」という人を見て、「そういう人に限って大して仕事してない」なんていう人もいるけど、その人が忙しいと感じている仕事は現場で物理的に起こっていることに上積みして、頭のなかが忙しいのだと思う。

いつまでに何を決めなきゃいけないとか、仕事を任せた相手の進捗を見守るとか、翌日以降の重要な仕事のために用意するものをいつどうやって手配するかとか、その他細々した仕事を、相手が引き受けやすいタイミングと表現で伝えられるように、相手をときどき観察しておくとか。

こういう忙しさって、歳を重ねて責任が増すほどに増えるし、共有したり分担することが難しい。

夫婦の家事分担に対して、夫は手伝っているつもりでも妻は全然足りてないと感じるのも、この頭の中の忙しさまでは分担できず、むしろ「夫が気持ち良く引き受けてもらうためにいつどうやって頼むか」を考える忙しさが物理的な手伝いより重たい仕事になってしまうケースだってある。

管理職の孤独と苦悩もまた、似たような構造があるのだろう。

とまあ、脱線したけど、つまりは春休みにあったそういう忙しさから解放されて、ちょっと穴を塞ぐ程度の心のスペースができた今朝なのでした。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。